確率と意味

ここの所、ビハーラでの法話が重なっている。
法話が終わると、落ち込むのはいつものことである。
 
法を取り次ぐことから言えばほど遠いし、
そこにいた人たちの求めるものに応えられたのかといえばもとないし、
自分の追求したかったことからは外れているし・・・
というわけで、落ち込むのは教員をやっていた時からの習性である。
 
だから、落ち込んでも不幸なわけではない。
教育の場合は、次にもっと良くしようと思っていた。
その機会もあった。
今は、それがただ一回限りのものであると思う。
 
またこんどがあるさ、
と考えることができるのは人間だけである。
動物は、今現在しか生きていない。
 
未来に希望を持ったり、絶望したりすることができるのは
人間のそうせざるを得ない習性なのだろう。
 
ただ、ここでいう希望とは願いである。
人間として生まれて、生きてきて、何を明らかにできたのか。
一番大事な、人間として生まれ生きていき死んでゆくということの意味がわからない。
不思議でしょうがない。
 
「宇宙の中には、未決定性の、自発性の、感情の要素が存在している。
 なぜなら偶然は感情の外的側面に他ならないからだ。」
 
とパースは語った。
私は誰かから見ると○%に相当する存在である。
現在の私の生や現象の中には、確率的な他者や不確定な死が入っている。
意味と確率はどのように統合したら良いのだろうか。