昨日せせらぎで「お参りの集い」があった。
この集いはビハーラの活動の一つだ。
保育園の子どもたちが、歌を通して入所者と触れ合っていた。
短い時間だったが、皆さんの顔が輝いているのと、子どもたちがお別れのときに手を振っていたのが印象的だった。
ビハーラとは安らかな場所という意味のサンスクリット語であるという。
お寺という意味も含まれるから、本来お寺は安らかな場所だったのだろう。
夜はビハーラの活動について話し合いがもたれた。
20周年を迎え感謝の会をするかしないかということが話し合われた。
感謝というのは、一生懸命にやってこられた方たちへの感謝という意味だが、
そもそも、やらしていただいていることを私たちが感謝しなければならないということになり、
誰かに感謝状を出すというような儀式ではなく、
長いことようやらしていただいたと感謝する会にしようということになった。
その中で、私たちのビハーラは道半ばだと言われた方がいる。
ビハーラの活動は傾聴にあり、傾聴は一対一でないと成り立たない。
とことんその人とつながらないと本当の声は聞こえない。
だから、法話や活動だけではまだ途中だと言われたのである。
「やってやる」は聖道の慈悲だが、これはどこまでも残るとも言われた。
「やらしていたたく」という浄土の慈悲にはほど遠いとも。
思えば、教育の場や活動は全てビハーラであった。
ケアはどちらかというと作用であり、ビハーラは体・場所的である。
ケアは互いの存在そのものを問う。
そして、ビハーラは私の存在を問うている。