アングリマーラの話

人は必ず過ちをする。
問題はその過ちに気がつくか、そして、それを償えるか。
 
仏典のなかに、央掘摩経という経典がある。
アングリマーラという999人の人を殺め、釈尊に説得されて自分の行いを悔いて
仏弟子となった人の物語である。
 
アングリマーラは人を殺している時についた名前である。
まじめで、誠実な若者だったが、師の1000人殺せばさとりを開けるという命令で殺人をおかす。
たぶん、歎異抄の13条「人を1000人殺してんや」の話は、この仏典を前提にしているのだろう
 
唯円さんは、自分には一人でも殺す力量はないと即座に否定する。
しかし、アングリマーラのように条件と事情、因縁さえ整えば、力量があろうがなかろうが罪を犯すことがある。
歴史を見れば、まさにアングリマーラのことは特別なことではないとわかる。
お国のために、正義のためにと、1000人どころか、何十万人、何百万人と殺した。
それは今でも変わっていない。
 
人間はそのような業縁がもよおせばいかなるふるまいもすべし・・・
 
私たちは人間の業というものの底知れなさをつくづく知らされる。
私たちはそういう業を量ることができない「はかない」存在。
弱くて脆い存在なのだ。
 
仏典ではその犯した罪をどう考えているのか。
アングリマーラは、1000人目に釈尊に出会い、自分自身の罪深さを自覚する。
そして、自分の行くところは地獄しかないと思う。
釈尊は、彼に新しく生まれ変わったことを伝え、仏弟子として修行を努める様に諭す。
 
アングリマーラは修行のひとつ托鉢に出かける。
彼のしたことを周りの人は許さない。
托鉢の椀に米の代わりに汚物を入れる。
石を打って傷つける。
大勢の人に囲まれ、罵倒され、打たれる。
半殺しの目にあいながらも、彼は町の人たちに手を合わせる。
血まみれになりながら帰ったアングリマーラ釈尊に語る。
 
釈尊よ、私は元から、アヒンサカ(無害という意味)の名を持ちながら、
 愚かさのために多くの人の命を奪い、清まることのない血の指を集め、
 アングリマーラと呼ばれるまでになりました。
 しかし、今や三宝に帰依して、覚りの智恵を得ることができました。
 
 馬や牛を調教するには杖が要り、象を教えるには鉄の鈎が要るけれど、
 あなたは剣も杖も用いずに、残虐な私の心を調えて下さいました。
 雲に覆われた月が、光を現す時のように、私は今、受けるべき報いを受け、
 正しい法(おしえ)を聞き、清らかな法の眼を得て、静かなこころを得ました。」
 
自分のしたことの報いで、地獄に落ちて何百年も苦しまなければならないのを、今こうして罰を与えてくださっている。私は、生きることも死ぬことも願いません。
アングリマーラはよろこびながら語った。
 
差別法名、戦時教学、戦争責任・・・
この罪を前世の因縁として弥陀にかぶせて救われるというのではない。
ましてや、歴史を見れば誰でも行っていることとうそぶくことは許されない。
私たちにはそういう弱さがあるが、それは許されているわけではない。
 
本願を頼むからこそ、私たちの行為全てが我々の限界としての宿業としかとらえようのない不可思議なものであること、量ることができないものであると自覚できるのだ。
アングリマーラのように慚愧し、頭を下げるしかない。