逆謗摂取釈 アジャセの物語

今年最後の本典勉強会。

アジャセの回心の所。
これを「逆謗摂取釈」という。

昔から、アジャセがどうして回心したのかわからなかった。
釈尊と六師外道の説の区別ができなかった。
釈尊の話もこじつけのような理屈ではないかと感じていた。

今回この段だけで3時間かかったが、期待に違わず、
深く考えさせられる内容だった。

アジャセは自分の罪を深く自覚し、身体も心も病んでいる。
それに対して、
六師は、地獄はないとか、罪の報いは幻想だとか、もともと罪は無いと語る。
それは因果を否定することになる。

アジャセはそれに納得しない。
自分の罪を自覚しているから。

耆婆だけは、その罪の自覚が「慚愧」であり、
慚愧しないものは畜生であり、人ではないと語る。
アジャセの慚愧を肯定している。
罪を犯したけれど、慚愧を学んだことをほめるのである。

でも、アジャセは父王の慈悲の言葉を聞いて、ますます苦しみにとらわれる。
まず釈尊は身体の苦しみを、愛の光を放って癒す。
そして、アジャセに語る。

アジャセの罪は私の罪であり、様々な因縁によって罪が起こるのであるから
私や仏方にも罪があると、慚愧の共感をする。
そして、有名な「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」
という「善悪不定」を語られる。

この縁起の思想からは、全責任と無責任の両方が出てくる。
アジャセは全責任を感じているから苦しんでいる。
釈尊はここで「空=無自性」を説かれるが、ここからアジャセの回心がなぜ起こってくるのかはわからない。

しかし、結果を見ると、アジャセに「無根の信」が生じ、
あれほど恐れていた地獄に落ちることを厭わなくなる。
そればかりか、地獄に落ちても、衆生のために「一切衆生、悉有仏性」を説くことを苦としないと誓う。

人を恨み悪行を成してきた人が、信を得て仏道を歩む人になった。
つまり、煩悩が菩提心に転じた。

アジャセはその後、仏法に帰依し、
釈尊入滅後第一回結集の時には、財的に援助して仏教教団の外護者となった。

今回もいろいろな発見があったが、その中で一つ。
「アジャセの在位は32年間。仏滅後24年に没した」とある。
とすると、王舎城の悲劇(観経の時)は仏滅より8年前。
そして、アジャセの回心(涅槃経の時)はそれより8年後ということになる。
8年もかかっているのは意外であった。

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