「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)推進について

僧侶研修会でいただいた、

福岡教区の『「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)推進についての意見具申』
を今日初めて読んだ。
 
納得できる意見で、全面的に賛成である。
前から疑問に感じていたことを、きちんと文章としてまとめていただいたと感じる。
 
さらにまとめると
(1)私たちはどこまでも愚かな存在なので、常に過ちをおかしていることを自覚すること
(2)その為に過去を振り返り・立ちかえることは欠かせないこと
(3)現実の社会問題と教義上の問題がどうつながっていくのかわからなくなっていること
(4)仏法をベースにした「めざすべき社会」ということはありうるのか
(5)かって戦争をすすめた教団の過去の過ちを真摯に振り返ること
(6)仏の救いの平等性や大悲のはたらきを、凡夫たる私たちが持てるのかという疑問
 
現在の世界の状況に対して、多くの人は心を痛めることもなく、無関心でいられることができるのは何故でしょうか。
それは、富や情報の偏在とともに、命の格差や文明に対する優劣視が根底にあると言えます。
今も、「石・瓦・礫」のように顧みられることも無く簡単に踏みつけられていく命に対して「十方衆生」と呼びかけられている阿弥陀如来の本願がはたらいていることを。
その上で、すべての者がつながりあった命を生きる存在であることに目覚めた私たち念仏者は、たとえどの様な論理を突き付けられたとしても、かけがえのない命を奪うあらゆる戦争を拒否することを根本において態度表明しなくてはなりません。
それこそが、「世をいとうしるし」ということではないでしょうか。
この言葉は、心をうつ。
石・瓦・礫のような私たちだからこそ、共感でき悲しむことができる。
「世をいとうしるし」とは親鸞さんの手紙の言葉である。
それは世の中から逃げることではなく、世の有様を悲しむことである。
 
この具申の最後に、アジャセ王に魏婆大臣が説く所をとりあげている。
私たちの慙愧とは、白法なのである。
 
善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり。
大王、諸仏世尊つねにこの言を説きたまはく、二つの白法あり、よく衆生を救く。
一つには慚、二つには愧なり。
慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。
慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。
慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。
これを慚愧と名づく。

無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。
慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
善きかな大王、つぶさに慚愧あり。
アジャセ王はこの白法である慙愧の心を懐いた。
しかし、・・・