召喚する真理(正像末和讃)

久しぶりにラジオ体操に参加。

大峰顕師の「召喚する真理(正像末和讃を読む下」を読んでいたら、次の図と出会った。いつもの癖でつい図にしてしまった。
この三種類の言葉の違いをイメージできるだろうか。

大峰師は、「垂直方向に生まれる詩的言語は、概念や論理的な言葉では言い尽くせない深い実存の真理を直観し、それを言語にもたらす営みで、名号はそこに入っている」と言われる。

その次元に立つと、次の和讃も単なる慚愧のものではない。
光に照らされたわが身を振り返った悲しみの詩なのである。

浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて
 清浄の心もさらになし

 そして、この親鸞さんの深い深い悲しみはすぐに大きな大きな喜びに転ずる。

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀廻向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまう

 この和讃を詠うときいつも涙が流れる。