「あそび」について その4「スポーツも囲碁将棋も遊び」

県岐商の試合には皆夢中になっていた。

野球もサッカーも遊びから始まった。
そこにルールが成立し、チーム同士の勝敗があるだけだが、今では仕事になった。

囲碁・将棋も本来遊びだけど、プロがいる。
魚釣りも遊びだ。

子どもたちが魚釣りに行きたいというので、竿と糸と針と餌を用意していた。
喜んだ孫たちは素早く竿をなぶっている。
「おじいちゃん、大変なことが起こった」と叫ぶ。
見るとせっかく取り付けた糸を切らかしている。
大掃除で疲れていたので、思わず怒鳴ってしまった。
孫たちはしょんぼり。なぜ怒ってしまったんだろう。
こういう後悔も含みながら遊びは続いていく。

釣りやスポーツが仕事になったように、遊びは労働する力も育てる

子どもの頃、山の中に隠れ家を造って遊んだ。
雪が降ると雪で砦を造り、雪の中で通路を張り巡らせた。
これなんか、構想と実行の原点だ。
雪や木々という自然のものに働きかけ、夢中になって造って遊んだ。
だからこれらは労働の元だ。

寺子屋でマンカラをやっていた姉妹が喧嘩を始めた。
「地獄に落ちて帰ってくるな」とか言い合いをしているし、いつまでもやっている。
わけを聞くと、蒔くときに飛ばしてインチキをしたというのだ。
こんな時は慰めてもだめで、別のより楽しいことに向かわせるしかない。

そして、別の時に、やりたいと言ったら、
「この前喧嘩になったけど、同じようになると楽しくなくなるから、どうしたら喧嘩にならないか考えよう」と提案する。
これは大人の調停者が居ない時でも応用ができるようになると思う。
そして、大人の方の遊びに対する態度だって同じで、さっきの釣りでも、子どもたちは夢中になるから糸を切らすぐらいは当たり前なのだ。

孫がボードゲームでインチキをしたと友だちに叩かれていた。
後で聞くと「あれくらいのことで怒らなくってもいいのに」と言っていた。
勝ちたいがために許せないということもある。
ルールを決め守るということの加減も難しい。

つまり、子どもだけで「あそべる」力はまさに生きて働くチカラなのだ。
簡単に言うとそれはコミュニケーションを交わすチカラを育む。