先日、教え子から電話がかかってきた。
いつも2時間ぐらい話している。
今回ふれあいキャンプの事を話したら、なぜ今でもやっているのか聞かれた。
「それは先生の義務ですか?」と。
それで、「遊びです」と答えたら、「先生の遊びって何ですか」と聞かれたので、
「あそびって、そのこと自体が目的の活動」と答えたら、話が広がっていった。
例えば、風船バレーを子どもたちは夢中になってやる。
集団的な遊びだけど、まだ大人がいないとできない。
この遊びはルールを決めて、守るという社会性を持っている。
ルールはその時の参加者によって決める。
大きい子はひざつきで、小さい子は立っても良いとか。
返す回数も決める。
ところが守らない子がいる。
それは審判が判定するけど、やがて子どもだけで決めるようにさせたいと思っている。
実は私自身、田んぼで夢中になって野球をやった経験がある。
ルールは自分たちで決める。
審判はみんなで判定した。
もちろんやろうと言うリーダーもいる。
夕方ボールが見えなくなるまでやった。
ここには大人はいない。
大人が関わるスポーツ少年団とは違い、子どもたちだけの世界であって、まさに自治的な世界なのだ。
このあそび経験は、自治や協働のコミュニケーションの体験であり、それを育てたものだと思う。
そんな話をしていたら、彼は自分にはそういう体験が無いという。
子どもの頃、まわりに合わせていただけで、ボスの言うことを聞くだけの世界で、いつも孤独を感じていて、こんな子どもの世界を早く卒業して大人になりたいと思っていたというのだ。
だから、集団で「あそぶ」ことをイメージできないと。
仕事でも一対一は良いけど、集団でどうやって指示したり仕事をするのかわからない
と言っていた。
29歳の彼には、集団で仲間と楽しく遊んだ経験が無いのだということを知った。
(今思うと思い当たることがある)
みんなと遊ぶ面白さから「共感」が生まれる。
競争するから夢中になり、認められたいと願う所からコミュニケーションが生まれる。
小1の子がゲームをしていて、インチキをしたと喧嘩を始めた。
すると、暴力に訴える。
小1の子たちにはまだ大人の介入が必要だけど、それは上級生が担っていたのだろう。
にくだん(Sけん)という遊びを、上級生が集団登校の前に神社でやらせてくれた。
それが面白くて早く集合場所に行ったものだ。
リーダーの在り方を自然と身につけたのか、先生がそれを教えたのかわからないけど。
目的を自分で決められない子は、心から遊んだ経験がないからだろう。
遊びは、遊び自体が面白いからやりたいという目的が体の中に生じる自己充足的な活動である。
そして、遊びはいつもトラブルを生み出し、そのトラブルを解決する「コミュニケーション的理性」を育む。
だから遊びは、身体で様々なことを身につける学びの宝庫なのだ。