道しるべと蝉の話

昨夜少しだけ雨が降った。

これで水不足が解消されれば良いのだけど。

ここの所、法話で同じテーマで話している。
昨日は「なごみ」でビハーラの法話
ところがスタートは同じだけどゴールが違っている。
それがなぜなのか面白い。

そのテーマというのは「道しるべ」と「蝉」の話。
そして、世俗の話はきりがないけど、これから仏法の話をしますと切り出す。
ゴールが異なるというのは、ある本の影響。

大峯顕師の「永遠と今」浄土和讃を読む 上 を読んでいる。
この影響で、どれだけ読み進んだかでゴールが違ってくるのだ。

例えば「極楽のあまり風」というイメージも
俗世と浄土との対比で使っていたけど、
浄土に包まれている私というようにとらえると、
全く異なるイメージになってくる。

面白い譬えがあった。

私たちは骨になる。
では私たちは骨なのか
骨になるために生きているのか
骨が言葉をしゃべるのか
心は初めから終いまで体を超えた次元。

南無阿弥陀仏のみ名を信じた人はみな仏になるという真理は、
 いかなる意味でも人間の意見などではありません。