「一本のねぎ」と「蜘蛛の糸」について

23日に書いたことをもっと書きたくなって書いている。

蜘蛛の糸」は、蹴落としたカンダタの心根につい目が向いてしまう。
しかし、このようなカンダタでも一匹の蜘蛛を助けたという点に目を向けてみると、
まったく異なった景色が見える。
その視点を与えてくれたのがこの本。

恥ずかしながら「カラマーゾフの兄弟」を最後まで読み通したことはない。
第3部のアリョーシャはゾシマ神父の遺体から腐臭が漂うところから始まる。
「世界には悲惨が満ち溢れているのに、どうしてこれを神が作ったといえるのか」という問いをめぐる兄イワンとの論争(大審問官)、そして尊敬するゾシマ神父の死によって、アリョーシャは打ちひしがれる。彼の中にどうとでもなれと思う心が生じ、友人に誘われるままにグルーシェンカの所へ行く。その時、彼女は一本のねぎの話をし、自分は意地悪なばあさんと同じだという。アリョーシャは彼女の魂の深さに触れ、「姉さん」と呼び、私の心を甦らせてくれたと告げる。実はグルージェンカもアリョーシャによって癒され、こんな私でも一本のねぎを人にやったと言う。

そして、ゾシマ長老の棺の横でアリョーシャは夢を見る。
ガラリアのカナの婚礼の場面の中に長老が登場し、アリョーシャに告げる。
「わしも招かれたのじゃ。楽しもうではないか」
「わしは一本のねぎを恵んだためにここに来ておるのじゃ。ここにおる人は大方が一本のねぎを、ほんと小さな一本のねぎを恵んだ人たちじゃぞ。・・・
おまえも飢えた女に一本のねぎを恵むことができたではないか。
はじめるがよい。いとしい息子よ。自分の仕事をはじめるがよい」
「あの方は今も愛ゆえに人の姿をとられ、わしらと楽しんでおられる。
客たちの歓楽が途絶えぬようにと、水を酒に変えられて、新しい客を待ち受けておられる。永劫の果てまでも・・・」

一本のねぎを恵むという仕事!
それは喜びである。


作ったものを補充しなければならない。
以前作った「叶う結び」のストラップを3個ほど作ってみた。

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