六にんの男たち

六にんの男たち
――なぜ 戦争をするのか? 
  デイビッド=マッキー 作 / 中村こうぞう 訳 


むかし、六にんの 男たちが いました。
  男たちは、へいわに はたらいて くらすことのできる 土地を もとめて、 
    ながいあいだ、あるきつづけていました。


ながいこと さがしまわったすえ、ようやく、六にんは よくこえた 土地を みつけ、 そこに すみつくことにしました。
みんなが、せっせと はたらきました。
畑を たがやし、家を たて、しだいに かねもちに なっていきました。


ところが、だんだん かねもちに なるにつれて、六にんの 男たちは、しんぱいに なりはじめました。
どろぼうが やってきて、せっかく たくわえた  ものを さらっていきはしないかと、きになりだしたのです。 
そこで 男たちは、たかい とうを たて、てきを みはることに しました。 
すこしでも あやしい ものおとが すると、そのたびに かけていっては、 
とうに のぼってみるのでした。


そのうち、みんなは、そんなことを するのに あきあきしてきました。 
あるひ そうだんのけっか、それでは じぶんたちの ざいさんを まもるために  ばん兵を おこう、ということに なりました。


六にんの 男たちは、みるからに つよそうな 六にんの 兵隊を やといました。 
これからは、なにか めんどうなことが おこると、その兵隊たちが でかけてゆけば よいのです。


ところが、どろぼうどもは、いっこうに やってきません。 
兵隊たちは、なにも することが ないので、すっかり 
たいくつして、ただ ごろごろ ねそべっているだけです。 
六にんの 男たちは、また しんぱいに なってきました。 
こんどは、兵隊たちが たたかいかたを わすれはしないかと、きになりだしたのです。それに、なにも しない 兵隊に  おかねを はらわなくては いけないということも、なやみの たねでした。そこで 男たちは、なにか よい ほうほうは ないかと、あれこれ かんがえました。


ちかくに、ほかの 人たちが すんでいる 農場が ありました。 
六にんの 男たちは、それに めを つけて、その農場を のっとるために、 六にんの 兵隊を おくりました。のっとりは かんたんでした。 
へいわに くらしていた そこの農民たちは、さっさと にげていったのです。 
このたたかいで、兵隊たちは 力のほどを しめしたし、おまけに 土地は  ふえるしで、ようやく 六にんの 男たちは しんぱいが なくなりました。


ところが こんどは、もっと つよく、 
もっと かねもちに なりたいという きもちが わいてきたのです。 
まもなく、兵隊たちは、ちかくにある 農場という農場を つぎつぎと、 
ひとつのこらず せんりょうするように めいれいされました。これらの 
農場の 農民たちの なかには、ていこうして ころされる ものも ありましたが、 
こうさんして 六にんの 男のために はたらくことを しょうちする ものも ありました。


六にんの 男たちは、ますます おおくの 土地を せんりょうし、ますます かねもちに なるにつれて、もっともっと おおぜいの 兵隊を やとわなくては ならなくなりました。
こうして 男たちは、やがて 大きな 軍隊を もつようになり、さいしょに やとった 六にんの 兵隊が、この軍隊の 上官に なりました。


  この軍隊は、さらに おおくの 土地を せんりょうし、 
  とうとう 六にんの 男たちは、このちほうを
  大きな 川のところまで おさめることになりました。

こうさんしたくない 農民たちは、川を わたって、にげていきました。 
そして 川の むこうがわで、せっせと はたらき、こうふくに くらしました。 


この人たちの たった一つの しんぱいは、あの 六にんの 男たちの 軍隊が、
川を わたって、せめてくるのではないか、ということでした。

そこで この農民たちは、てきを ふせぐために、みんなが 力を あわせることに きめました。そして 二つの グループに わかれました。


二つの グループが、かわりばんこに、戦争のための くんれんをしたり、畑を たがやしたりするのです。こうして、てきの こうげきに そなえました 


  六にんの 男たちは、川ぎしに ひとりの ばん兵を たてました。
  すると 川の むこうがわでも、おなじように、ひとりの ばん兵をたてました。 


  しばらくのあいだは、なにごとも なく、おだやかに すぎました。 
  りょうほうの ばん兵は、てもちぶさたでした。 


ところが あるひ、一わの カモが 川に とんできました。 
りょうほうの ばん兵が、それを みました。
りょうほうの ばん兵が、それを ねらって、矢を はなちました。 
が、りょうほうの ばん兵とも、しっぱいしました。
それた 二つの 矢は、うなりを はっし、川を よこぎって とんでいきました。 


すると、りょうほうの ばん兵とも、じぶんが てきに ねらわれたのだと おもって、 ラッパを ふいて、きけんを しらせました。 

    りょうほうから かんぜんに ぶそうした 軍隊が くりだされ、 
    大きな たたかいが はじまりました。
    川の うえと、川の りょうぎしで、 
    はげしい たたかいが なんにちも なんにちも つづいて、そして・・・・ 


      たたかいが おわったときには、
      いきのこっている ものと いったら・・・・・・ 


  ただ、川の りょうがわに、六にんの おとこたちが いるだけでした。 
  川の りょうがわの 六にんの 男たちは、それぞれ はんたいのほうこうに 
  たちさり、へいわに はたらいて くらすことのできる 土地を 
  もとめて、あるきつづけるのでした。 

かけがえのない「みずから」を生きている

「たった一つの生(いのち)を一人立ちさせる」のが高村光太郎の願いだった。

「たった一つの生」=「みずから」=「みずからの来歴(体験)」。
しかし、そもそも関係性の中にあるその「みずから」を一人立ちさせることができるのだろうか?
何から一人立ちさせるのだろうか?
高村自身の揺れの中でこの試みは揺れる。

それは現在の私たちの「みずから」の危機とつながる。
「~することになりました」という意識=無責任へと流してしまう危険性もある。
さもそうすることが「おのずから」であったかのように。

そもそも「おのずから」の働きを「みずから」は担いきれない。
つまり、責任をとりえない。

でも、そういう「おのずから」は「みずから」をうながす働きとして感受されている。
ここでは「みずから」は感受する主体である。
その意味で私たちはかけがえのない「みずから」を生きている。

「九条があったから日本は平和だった」のではなく「平和をつくるためには九条が必要なのだ」と「みずから」の方へ転換することが大事なのだ。

さっきズッキーニを採りながらふと感じた。
作物は「おのずから」育つ。でもそこに「みずから」のはたらきがある。
百姓はそれを常に感じながら働いている。

 

「おのずからの現象」と「みずからの体験」

ジャガイモを収穫してから、切立のいきいき教室に参加した。
皆さん実に生き生きしている。
最後に「さようなら」の語源を示して「さようなら」を言った。
「左様なら」(そうであったなあ。そうであったなら。)
板書を消さないでほしいといわれた。

 

このところ『「おのずから」と「みずから」』という竹内整一氏の本を読んでいる。

この本は日本文化における「おのずから」成ったことと「みずから」成したことが別ごとではなく、その「あわい」に日本文化の特徴があるということを分析したもの。
私のことで例えると、前にやった「シムソン線と直極点とデルトイド」の証明は「おのずから」成ったのか「みずから」成したのかという問題となる。それを考えていたら、次のような図が浮かんできた。
最初の状態はこれ。つながっていない=関係がない
これが「おのずから」だんだん接近する
ある現象と自らの体験が接触したらその「あわい」が働きだす
そして、「あわい」方が大きくなる
現象はおのずから示し、その現象の必然性が体験の中で見えてくる。
こういう運動が「あわい」の働きではないか。
関係のなさそうなもの・ことがつながっていることがわかることは面白い。
でもこの最後の図は二つの領域が完全に一致することはない。

証明してから3週間以上経つのにまだ不思議な現象を感じている。

 

近所の建前

今年のキッズサンガの計画と案内を掲示した。

夕方子どもたちの声がするので外を見ると大勢の人が集まっている。
建前の餅まきがあるのだ。
朝建前を始めたばかりだったので、今日やるとは思っていなかった。
早速袋を持って行って餅を二個拾ってきた。
これだけ人が集まっているのを見るのは久しぶりで、何だかわくわくした。

夜はオンラインでサークル。6名の参加。

敬願寺文書

馬淵先生が鷲見の敬願寺文書の現代語訳をしてくださった。

hamaguri.sakura.ne.jp

ワード文書。

敬願寺文書は濃北一覧とほとんど同じ。

時期もほとんど同じで、どちらが先かわからないが(濃北一覧の文中に嘉永六年までとある)、この敬願寺文書の最初に「大元祖敬願寺」と書いてあることで明らかになったことがある。

それは濃北一覧に鷲見氏と大屋氏のことが同時に書いてあるのが昔から不審に思っていたこと。これを書いたのが古屋氏で、先祖の大屋氏(直接の先祖ではないらしい。敬願寺門徒ではある)のことを書いたのだ。

「敬願寺覚成坊由緒伝記」が先に書いてある。
この部分が濃北一覧にはないのだ。

だから鷲見氏と大屋氏が同時に載っているのだと合点。
そして鷲見大鑑とは違うところが多い。

 

ちなみに今契約しているブロバイダは「さくら」だが、先日ストレージを10ギガバイトを100ギガバイトにすると連絡があった。
なんと10倍。もちろん金額はそのまま。
今まで千ページ以上書いているのに、まだ1ギガバイトも使っていない。
テキストというのは容量が少ない。画像や動画にかかるのだ。
だからたっぷり余裕がある。

 

大人の学校と古文書

午前中、郡上市図書館「大人の学校」
稲葉さんの「義経の逃避路と石徹白・長滝」

中尊寺一字金輪仏頂尊を知った。
木造で大日如来で秀衡の念持仏という。
虚空蔵菩薩とはだいぶ異なる。

 

その後、田代家文書のことで、田代さんから後で資料をいただくことになった。
田代冠者信綱の資料である。

午後「たかす古文書読ままい会」
長善寺文書の解読。まだ終わらなかった。
その後、高鷲文化財保護協会理事会

やらなければならないことがまた増えた。