煩悩と菩提

煩悩という言葉は便利である。
 
自分の弱さを
「これも煩悩があるからやな。」
とすべて片づけられる。
 
この煩悩は自分ではどうにもならないから、そのまま仏をたのむことになる。
「そのままじゃぞ」と仏は言われるが、
このままと受けとめては自力はそのまま残る。
傲慢な自分をそのままにしておいて胡坐をかいては仏とであったことにはならない。
 
いかり・むさぼり・おろかさの三途に仏の光があたる。
おろかさには智慧の光があたり、愚者であることを知らしめる。
むさぼりには清浄な光があたり、その欲には限りがないことを知らしめる。
いかりには知らしめる喜びの光があたり、慚愧と同時に歓喜が湧きあがる。
 
その光は私の心の中を照らす。
 
今日はディケアで六道輪廻の絵解きをするつもり。
 
 弥陀の智願海水に
   他力の信水いりぬれば
   真実報土のならひにて
   煩悩菩提一味なり