「我執」と「法執」

最近娘に勧められてヨガをやっている。
これが一種の禅であり、身体の方を整えることで、とても気持ちが良い。
身体を整えると心も整うのだと思う。

多川俊映師の『唯識 心の深層を探る』を読んでいる。
読んでいると真宗のベースは唯識にあると感じる。
例えば阿弥陀経に出てくる「五根五力」は、次の五根とそれらのはたらき。
「信」 自己を真理にゆだねる
「勤(精進)」 たゆまず努める
「念」 記憶する
「定」 集中する
「慧」 択び分け、正邪を判断する
浄土真宗では最初の「信」一つを大事にする。

私は「煩悩」と一言で言うけど、唯識では私たちの障碍を二つに分ける。
「我執」と「法執」である。
我執とは自我に対する執着で、いわゆる自己愛。これを断滅した状況が「涅槃」。
法執とはモノゴト、ことがらに関わる執着。これを断滅した状況が「菩提」。
私は法執には常にとらわれている。
「涅槃」は心身の寂静で、「菩提」は覚の智慧

涅槃と菩提をこのように分けるということを初めて知った。
ちなみに精神分析は、心の奥底を知れば行動が変わるが、唯識では心の奥底は見ることも変えることもできないという点が異なる。

唯識というと「阿頼耶識」が思い浮かぶ。
この阿頼耶識は第六識では自覚できないが、阿頼耶識の影響は末那識へ、そして、末那識から第六識へと影響を与える。つまり私たちが自己だと思っている第六識は知らずに末那識や阿頼耶識の影響を受けているのだ。

私はよく法話閻魔大王の裁判のことを話すけど、この時の閻魔帳は誰が書いたのかと思っていた。それは「俱生神」が書くという。一人の誕生に際してその左右両肩にそれぞれ俱生神が付いて、私たちの善悪行為の一つひとつを漏れなく記録するという。
イメージとしては一人ひとり記録をAIがデータとして保存するようなもの。
そして、死に際してそのノートを閻魔様に提出する。「浄玻璃鏡」も同じ。
この俱生神が阿頼耶識なのだ。そしてノートに記録されたものが「種子」。

もう一つ六煩悩の貪瞋痴は、むさぼり、「いかり」、おろかさと思っていたら、
唯識では、瞋は「排除する」だったのに感心。
怒りは不正に対しても感じるけど、その後に排除するのがいけない。
確かにそうだと感じる。