「凡愚の自覚」のはたらき

今日ようやく本堂の雪が滑り落ちた。明日は雪かきをしよう。
夜は頼母子があった。いろいろ語り合った。

唯識についていろいろ考えることがあって、目的をいくつか設定した。
まず「唯識浄土真宗との関係を明らかにする」こと、
次に「唯識精神分析学との関係を明らかにする」こと
を中心に調べていこうと思っていた。
そうしたら「唯識プラトンイデアとよく似ている」のでは、ということが浮かんできた。
「かって経験したことがため込まれているから思い出すだけだ」というのがイデアなんだけど、これは唯識阿頼耶識とよく似ている。
というわけでさっぱり訳が分からなくなっている。

でも、一つだけ浄土真宗との関係で言うと、唯識も最後は「凡愚の自覚」に至る。
仏への道のりは果てしなく遠い。
その時、自分自身の無知、不実、欲望の果てしなさに気がつき、「愚なるを以て、還って知りぬ、大乗の性あることを。」となる。
愚であることを自覚してもなお覚りを求めようとする心の湧くのはなぜか。
「愚迷のゆえに仏(の救済)を求める。そういう仏の風光を一途に求めるほどのものがどうして大乗菩薩でないといえよう」解脱上人貞慶

浄土真宗で言うと「凡愚のものをこそ救おうとされた仏の願いに気がつく」ことと
全く同じだと感じる。