人人唯識

「私はマイノリティである」と考えると、既にマジョリティとマイノリティを分ける考え方に囚われてしまう。
どうしたらマジョリティに属すことができるかとかと考えてしまう。

唯識によると、そもそもそんな分け方は幻想である。
そしてみんな「人人唯識」なのだから受け取り方、考え方はみんな違う。
(人は見たいものだけ見る 確証バイアス)
みんな違うからその違いを受け入れる。
そして誤謬に満ちた認識から四智による世界の本質の洞察へ。

この列島の風土は山川草木悉有仏性で全てのものに神が宿る。
だからこの列島に到来したものをすべて受け入れてきた。
例えば古くは儒教道教と仏教。
大自然の中の人間のあり方を示めすのが道教
社会を営む人間のふるまいを示すのが儒教
その中に生きる人間の心とはどのようなものかを示すのが仏教。
このようなとらえ方は菜根譚に描かれていると多川俊映師は語る。
そして、次のように結ばれる。

知情意にわたり相互に異質な者同士がその異質性をベースに皆がその個性を大きく展開していく中に「文」のある「艶」のある社会が出現する。・・・
 錯集成文  錯(まじ)わり、集まり、文を成す

この文はあやと読む。つやはおもしろみ、味わい。
八幡小学校の講堂に「文質」という文字が掛けられていた。
それはどういう意味か。

子曰わく、質文に勝てば則ち野。文質に勝てば則ち史。文質彬彬として、然る後に君子なり。

孔先生がおっしゃった、ひとの性質が教養に勝った人はすなわち粗野な印象があり、教養がひとの性質に勝った人は記録係の役人のようである。教養と性質(資質)がうまく均整がとれてこそ、君子である。

これを、文は外面からだから文化・風潮、質は内面だから心ととらえると、
「心が文化・風潮に勝ると粗野となり、文化・風潮が勝った人は記録係の役人である」となる。
そして、質が多様であるので文も多様である(逆も同様)から、文が質を耕し、質が文を豊かにすると考えた方がしっくりとする。