行動と経験

「科学」と「生活」の違いは何だろう。
科学の威力は生活を変えている。でも科学ですべてが説明できるわけではない。
念仏者として科学をすべて肯定できるわけでもない。
それに例の「絶対世界の有様を語る神秘的な狂信主義」もある。
ヴァレラはこれを「行動と経験」の違いとして見事に表現している。
行動をしていると確かに身体で感じる時がある。

自然に向けられる面は認知過程を行動としてとらえ
人間の世界に(生活世界)に向けられる面は認知を経験としてとらえる

前の文は科学で後者が生活。科学と生活は相が異なる。

実際に、唄っていると「経験」する時がある。
例えば昨日の和讃を詠っている時の経験。

真実明に帰命せよ
平等覚に帰命せよ
難思議を帰命せよ
畢竟依を帰命せよ
大応供を帰命せよ
大安慰を帰命せよ
無等等を帰命せよ
広大会を帰命せよ
大心海を帰命せよ
平等力を帰命せよ

この平等は「一子地」である。
私たちには到達できない領域である。
でも、そういう経験は、「一子地でない(恩愛)」という経験から経験される。

一種の「純粋経験」。
ヴァレラがこの「経験」を「三昧/覚瞑想」に求めたのはうなづける。

ふと平等院はなぜ平等なのかという疑問が浮かんできた。