プチ法話会 寒念仏和讃

今日は6名の参加。

今年の郡上踊りは中止だったので、げんげんばらばらを唄った。

念仏おどりが盆踊りの起源であること、げんげんばらばらと江州音頭との関連。

げんげんばらばらの唄の解説。

そして、寒念仏和讃を唄ってその解説。

例えば、「機法一体」衆生の信心と弥陀が衆生を救うはたらきは一枚の紙の裏と表のようなもの・・・など。

葛野さんから、「成仏のイメージトレーニン」という話を聞いた。

これを紹介。

いはんやわが弥陀は名をもつて物(私たちのこと)を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり

「まして、 阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。 そこで、 この名号を耳に聞き、 口に称えると、 限りない尊い功徳が心に入りこみ、 長く成仏の因となって、 たちまちはかり知れない長い間つくり続けてきた重い罪が除かれ、 この上ない仏のさとりを得ることができる。 まことにこの名号はわずかな功徳ではなく、 多くの功徳をそなえていることが知られるのである」

ついでに「往生のイメージトレーニング」も。

 

午前中は免許証更新。

永代経は午前中のみ

永代経が終わった。

午前中のみ、お茶も出さないというものだったけど、20名以上の方が参拝された。

席をできるだけ離したのでほぼ満席。

いつものことだけど、終わるといろいろな方と話す。

これが楽しい。

法話の感想も聞ける。

午後からは墓掃除と栗拾いをした。

 

夜、モデルについて考えた。

私にとってモデルとは、「いかに具体的なものであっても典型となるもの」ということが分かった。

つまり、抽象的でイメージできないものはモデルではないのだ。

 そして、具体的なものだけど、モデルになる=一般化できる=理論になるというものだ。

これは面白そうだからもっと探ってみる。

抽象と具体

昨日の続きを考えてみた。

「理論」と「例」の対比である。

理論を理解するときに例を出すとわかりやすい(イメージができる)。
それは理論を創る(モデルを造る)時と逆になっている。

つまり、抽象と具体の相互交流であって同じものだと感じた。

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数学はなぜ勉強するの?

チコちゃんが、「中学校で習う数学は人生で一度も使ったことがないのになぜ勉強するのか?」と質問した。

チコちゃんの答えは、「論理的な思考力を養う(身に着ける)」ため。

ちなみに算数は計算力を養うため。

西成教授が説明していたその理由はすべて「例え」だった。

分配法則や代入、方程式の論理、因数分解等は、すべて例えであった。
例えば、料理をするときにまとめて炒めるのは分配法則。
方程式は問題を式にすることで論理的な表現力を高める。
ちなみに昔、交換法則が特別であることを教えるのに、服を脱いで風呂に入るのと風呂に入ってから服を脱ぐのでは違うと例えたことを思い出す。
例えは理解に欠かせないのだ。

これらの「例え」が数学をなぜ勉強するかを説明している。
ちなみに因数分解については ⇒ 「因数分解」と「代入」 に書いておいた。

ということは論理力を養うためには譬喩力がないと身につかないということである。
つまり、数学は論理力よりも譬喩力(アナロジーする力)を学ぶためにある。
それは、数学が私たちの日常の自然な思考をモデルにしているから。
数学の抽象は私たちの日常の思考をまとめたものだからだ。

例というのは抽象の反対だから、抽象化したり具体化したり、つまり、往(い)ったり還(き)たりすることが最も大事なことだと思う。
式だってa(b+c)⇌ab+ac の双方向が必要なのだ。
仏教でいうと、色即是空と空即是色の両方が。


ちなみに、私は数学が最も苦手である。
計算力はない。推論や論理力はない。
記号がイメージできないし、新しい概念がわからない。
定理が理解できない、だから証明もわからない。
論理をコツコツ積み上げることが苦手で直感的。
でも、面白いからやっている。


今日、前の車のナンバーが7773だった。
時々やっている前二けた×後ろ二けたのかけ算をやってみた。
77×73=7×11×73=7×803=5621と暗算で計算できた。
直接計算しようとすると、一時記憶の容量が極めて小さいのでできないのだ。
計算力をつけようとドリルばかりになると、算数嫌いになる。


午前中病院で検査。
時間がかかると思っていたら、4つの検査があっという間に終わってしまった。
結果が出るまで時間がかかったけど、予定を一時間短縮できた。
腹のレントゲンを見たら、背骨が曲がっていることに驚いた。

 

20日(日)に永代経厳修の予定

永代経は午前中だけ行う。

お勤めと法話だけの簡単なもの。

法話はコロナで変わったこと→リモート→100年前のスペイン風邪
過去帳から→シャボン玉の歌→孫の世話→転んでもただでは起きない→
寒念仏和讃と江州音頭→げんげんばらばらの歌詞→寒念仏和讃を味わう

この法話のために、郡上節のげんげんばらばらを練習している。

やっていて少しわかってきたことを記録しておく。
七五の節が2節と3節の所があって、メロディ―が違う。
たったこれだけのことに一か月かかってしまった。
これで、寒念仏和讃の区切り方によってメロディー変えることで唄えるようになった。


竹内勉師の『盆踊り唄ー踊り念仏から阿波踊りまで』を何度も読んでいる。

師の博識には驚く。

 

「醜いアヒルの仔の定理」と「繰り上がらない二進法の和」

本を再読していると、昔のアイディアがさらに進むことがある。

例えば、「醜いアヒルの仔の定理」という数学の定理がある。
これは「相同・相似」と「差異・差別」を比較するためで、本来差異はなく人間が勝手に作り出したものととらえていた。それは差別がなぜ生まれるのかを考えるためだったけど、よく考えると人間は差別をしてしまう生き物だ。

定理から言えば差異はないのに、それがなぜ出てくるのかはあまり考察していなかった。特徴量の数は同じなのになぜ差別するのかというと、その特徴量に重みをつけているからだ。これはニューラルネットワークにおいてバックプロパゲーションで重みを自動的に設定するということと相同(相似)なので納得。きっと同じような仕組みが人間の認識に組み込まれているのだろう。


もう一つ、「ゲームの数学」に三山崩しというゲームがあって、その計算は「繰り上がらない二進法の和」を使う。その時、なぜ繰り上がらない二進法の和になるのかということまでは考えていなかった。結果だけを記録しておいたのだ。でも、最近そのゲームが出てきたニュースを見て、なぜかを考えてしまった。

そこでこの足し算の表を作って見ていたら、要素の個数が2,4,8,16・・・の時に群となっている。
ここから繰り上がらない二進法ということが言えそうだと気がつく。
でも、それをどう表現したらいいのかわからない。それで、参考にした本を探したけど、ついに見つからなかった。

ついに本を見つけた。
圏論で書くと
     《三山崩しゲームの世界》     《二進法の世界

(二つの個数からもう一つの個数を見つける)(繰り上がりのない二進法の和)

p<2^n のとき p⊕2^n=p+2^n (そのままの和)
だから、pを2の累乗の和で表せば、加法の組み合わせで計算できる。
本には様々な定理を用いて見事に表現してある。
気がつかなかっただけ。

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  どういう足し算なのかGeoGebraのシートを作ってみた。

遮光カーテンを取り外した。

今日病院で手術の見通しが立つ。明日も検査。