思い出と記憶と追体験

母の願いは家に入ること。
当然の願いなのだが、いろいろあって悩ましいところだ。
でも、そうしなければならないしそうなるだろう。

先日、高校の同級生の友人が訪ねてきた。
何十年ぶりだけど変わっていなかった。
いろいろ話しているとすっかり忘れていることがたくさんあった。
記憶はあいまいなものだけど、こうやって再び体験されることがある。

そうやって記憶が体験され、人生の出会いもより豊かになる。
どんどん忘れるけど、どんどん追体験される。

この頃、処分するために昔の本を再読している。
再読していると、新アイディアだと思っていたことが書いてあったり、当時まったく理解していなかったんだとか、これどういう意味だとか感じる。と同時に、それが新しい出会いであることにも気がつく。

再読していて、思い出した言葉がクーンの「パラダイム
何だったっけ?と調べる・・・地動説や天動説がパラダイムの例だ。

このパラダイムは意味のネットワークとして表現される。
そして、理解するときにこのパラダイムは強力な働きをする。
このパラダイム圏論から見たらどう表現されるんだろうか。

そんなことを考えながら再読していると本が捨てられなくなる。

関手を考える意味

圏と圏との間の関手を考える意味を探ってみる。
例えば、以前とり上げた量の世界から数の世界への関手は次のように互いの世界を指し示す。ここで⟿は関手、→は射、↦は関数を表す。

  〔量の世界〕     〔数の世界〕
  時間 → 距離   ⟿  a時間↦ askm
 ガソリン → お金  ⟿  aℓ  ↦ as円
  (射は割合)      (射は関数)

これらは量の圏から数の世界への関手。
ガソリンの場合はスタンドが自動的に計算してくれる。
では次の和は何を表すのか?

  個人の力        数の世界

  〔 ? 〕 ⟿ 数学の点+国語の点+英語の点


この足し算は何を表しているのか?
例えばそれぞれの学習時間の合計?
それとも・・・
数の世界では考えられることも、元の対応する世界では意味を成さないことがあることがわかってくる。

もう一つの例

   時間  給料
 この関手は時給である。

圏論数学教育について考えている。

間違える法則

時々昔読んだ本を再読する。

圏論を読んでいると、考え違いや間違いに気が付く。また、数学とは何だったのか気になる。そこで「数学理解の認知科学」を再読。中身はすっかり忘れている。

この中に、間違える法則というのがある。
間違える原因を探っていくと、二つの規則性がある。

一つは一貫性がある誤り、もう一つは不注意な誤り。
そして一貫性のある誤りは、次の3つの法則に当てはまるというもの。

(1)(人間は)必要最小限の弁別のみが行われるようになっている
(2)(人間は)一度表現されたものは記憶から完全に消し去ることはできない
(3)(人間は)手続きに必須の情報が欠落しても課題を遂行しようとする

例えば
T:4×4はいくつ?
S:8です。
T:じゃ4+4は? (こういう対応が効果がある)
S:あっ、16じゃなきゃいけなかったんだ。

この誤りは、かけ算に足し算を使ったもので、かけ算を足し算に応用したのは(1)、また足し算を使ったのは(2)から説明できる。

ここで注意してほしいのは、人間にはこういう働きを持っているということ。
つまり、私たちも同じ間違いをしているということ。
そして、この法則が分かれば、対応の仕方もわかってくるということ。

 

モデルについて

診察を受けていても途中で受診をしないと再診察で「選定療養費」を取られることが分かった。半日病院。

圏論の歩き方」を読んでいて、具体例も立派なモデルではないかと気がついた。つまりモデルは「抽象化されたモデル」と「その具体例のモデル」の二種類ある。(いろいろな矢印を入れたので試す)

  《作られたモデル》  ⇌   《モデル化する》

 (抽象化)⇅(具体化)       ⇅ (モデル化することでわかる)

    現象(具体例)  ⇌   (わからない)現象

前者はモデルがすでに作られているけどわからない⇒理解⇢圏論のモデル
後者はモデルの方がわからない⇒モデル化⇢正負の数の計算を作る
前者では具体的な例を通してわかる場合がある。
いや、そもそもそのモデルがわかるときは具体的なものなのだ。
普通はモデルは抽象化されているけど、私たちにわかるモデルは具体的。

   抽象化されたモデル  例もモデル

つまり具体的なモデルは構造を抽象化されたモデル化といえる。

 ちなみに私にとってモデルとは
 「ガロア理論」であり、「正負の数のモデル」であり、方程式における「銀林ダイアグラム」であり、大西忠治の「構造読み」であり、板倉の「仮説実験授業」であり・・・

これらは理論的モデルなのだろう。

矢印(射)の使い方

朝日新聞で鷲田精一氏が折々の言葉を書いている。
短い文だけど理解できないときは矢印を使って構造をつかむようにしている。

f:id:bunryuK:20200910065303j:plainこうやって矢印を書かないと理解できない。
でも、とても面白いと感じる。

ザル」がどんどん変化している。

 

もう一つ、

げんげんばらばらの歌詞から

ハー私しゃ紀の国みかんの性よ 青いうちから見染められ
赤くなるのを待ちかねて かき落されて拾われて
小さな箱へと入れられて 千石船に乗せられて
遠い他国へ送られて 肴屋店にて晒されて
近所あたりの子供衆に 一文二文と買い取られ
爪たてられて皮むかれ 甘いか酸いかと味みられ
わしほど因果な物はない

最初に気になるのは、ミカンが赤くなるというところ。

二つ解釈が可能。
①赤は日中⇒まだ日が明るくなる前に
②赤はネズミがかった赤
前後の関係から②

でも、ミカンはリンゴとは違って橙色になる。
あか⇒緋(朱色)+紅(赤)+朱の総称

つまり、私(たち)が赤→紅と思い込んでいる。
でも、この場合は朱色。

因果は「不幸な因果」の意で使い、不幸の意になった。

このミカンが何かを例えている。

 

正しくない例えの例

雨の合間をぬって畑を耕し、雑草を抜いて、石灰と肥料をまき大根の畝を作った。

雨が降り出したら、圏論を教育に使うことが私の大きな目標なので、
モデル化のトレーニングのための「正負の数」は良いアイディアだと思って、その授業過程を考えて記録した。書いてみると、以前書いた

【指し示しの数学】
第7章 正負の数とモデル ・・・わかるとはどういうことか (2015.1)

と、ほとんど変わらない。同様の構想を持っていてちゃんと書いてある。
この5年間同じことを堂々巡りで考えていたんだと思うと情けなくなった。

悔しいから当時とどこが違うのか無理やり探してみた。


正しくないたとえの例
その例えは正しいのか ⇔ 構造が保たれているか

マイナスを借金に例えると、借金×借金=資産(貯金)になる。

これがなぜおかしいのか?

この例えはスタンダールが出したといわれているけど、スタンダールは数学が得意だった。そういう彼だったからこそ、このことがおかしいと気になったのだろう。

この場合は、「×借金」の意味が単なるあてはめであって明確でない。
どういう意味かと言われても言葉にできない(変換できない)。
そこで、×の意味を考える。
×は倍だから、例えば、借金を3回する ←→ 資産を3回手に入れる

           借金を3回手放す ←→ 資産を3回手放す

というように、対応させないと全体の構造が保てない。
(これが自然変換の例)

なぜ正しくないのかを構造的に考えることが当時との違いだと、無理やり考えた。
正しくない例えもモデル化には大事だということだ。

 

わかる文脈

病院の待合室で現代思想圏論の世界」を読んでいたら、とてもよくわかる論文に出会った。谷村省吾先生の「科学の書き言葉としての圏論」。

これがなぜわかるのか?

   よくわかる   ←→   わからない

  自分の文脈に合う      合っていない
 (歴史的に述べられている)
  新しいモデルが取り込まれる モデルにならない

わかるということは新しいモデルとして取り込まれ、利用できるようになることだ。

現代思想はいろいろな方が書いている。
その中には自分の文脈と同じ論文もある。
理解しやすかったのは「自然変換」のモデルだった。
その例がとても分かりやすかったから、「自然変換」もすんなりと入ってきた。
とすると、「モデルとしての自然変換」とその例というのも対応付けられる。

モデルが創られたことによって、今度は現実が変わって見える。
モデルについては正負の数で考察しているが、もっと考えなければならないことが出てきた。それはモデルとなる要件は何かということ。
さっきの例でいうと、やはりダイヤグラム
言葉を綴らなくてもこの図だけで分かってしまう。
この図はそれくらい情報量が多いのだ。
特に射を速度としたところには感心した。

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板取川が長良川に合流するところで、本流は澄んでいるのだけど、板取川が濁っていた。このことで合流の仕方がよくわかると思った。