「還来」と「所止」

あれから、「還来」と「所止」を考えている。
 
  還来生死輪転家 決以疑情為所止
  速入寂静無為楽 必以信心為能入
 
  生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
  すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
 
  當知生死之家以疑為所止 涅槃之域以信為能入
  
  當に知るべし、生死の家には疑を以て所止と為、
  涅槃の城には信を以て能入と為。
 
選択集の方は意味がよくわかる。
生死の家(迷いの世界)に止まるのは疑いがあるからであると率直に読める。
 
しかし、正信偈の方ははっきりしない。
なぜなのだろうか。
 
「還来」が入っているからである。
選択集では、私たちは生死の家に居るので、そこに止まるのは疑があるからとわかる。
「生死の家に還来すること」の方は、再び還るので、私たちは外から迷いの世界に入ることになる。
 
そうすると、「所止」の意味が異なってくる。
選択集の所止は迷いの世界に止まること、
正信偈の所止は「疑情を所止す」と読める。
「生死の家に還来すること」を所止すというのでは、疑情が肯定されてしまう。
 
親鸞さんはなぜ「還来」を入れたのだろうか。
蓮如さんは、迷いの家をふるさとのように考えている私たちが、
迷いの世界に還るのは疑情があるからだと読まれている。
 
「生死の家に還り来ることは、疑情を所止することを決しなければならない。」
と読むのだろうか。
ここで、 「還来」の方をとらえなおしてみる。
 
「迷いの世界に還る」ではなく、「迷いの世界」に居たものが再び迷いの世界に還ると読めば、
もともと迷いの世界に居る私たちであることになり、「所止」の意味が通じる。
「迷いの世界を往ったり来たりしている状態に止まるのは、必ず疑う心があるからである。」
 
「還来」は、私たちは生死の世界を還来しているというダイナミックなとらえ方である。
それは、私たちが「生死の家」にいることを自覚することも含める。
 
私は、浄土から迷いの家に還るという還相を連想していた。
「疑情を止めることによって生死の家に還り、信心の生活を送る」
そう読むこともできると思っていた。
読むことの大事さをまた味あわせてもらった。