「他力=本願力」である。
しかし、「そのまま=なすがまま・なされるがまま」ではない。
他力の魅力は、
「他力に導かれた先に、何かが自ずと生まれるような内発的な力がある」=本願力
という所にある。
この「内発的な力」を科学に当てはめてみる。
発見は自然の蓋いを引きはがすことだから、自然の中に隠された真実を見つけ出すこと。
その場合、大切なものの覆いをのけることと、まずいものの覆いをのけることの二つがある。
核力のようなものはまずいものと考えられるが、むしろ人間にはコントロールできないものの覆いをとる
といった方が良いのかもしれない。
そもそも、人間にはまずいとか大切なモノという区別はできない。
自然×作為≡他力×自力≡不作為×作為
というような二項対立ではなく、
科学的な探究と自然的な人間のあり方を統合する考え方に二つある。
一つは作為をなしていくことも自然的な人間の在り方だという考え
もう一つは、自然を支配するのではなく、そのままの形で取り出すことが技術だという考え方
どちらが良いのかではない。
どちらにも問題がある。
大事な点は、人間の持つ貪瞋痴を忘れてはいけないということだ。
私たちには知りえないことがあり、そして無力であるということを知っていること。
他力とは人間の限界を知らしめるものではないかと思う。
その上で私たちに出来うることは何かを考えていくしかないのだと思う。