草をすきこむ「フランチェスコの言葉」

畑の草を刈って、土の中にすきこんだ。

炭素を収穫して、土の中に戻すということを自覚しながらやると、確かにやる気が出てくる。

 

「完全な歓び」と「自分を捨てること」アッジシのフランシスのエピソード

聖フランシス(フランチェスコ)は一遍上人のような人。

 信仰ということのうちに、自分と他とを比較する意識があり、いはゆる「勝他」の気持ちがある限り。神とか仏とかを私しているような心状、誇り高ぶる高慢の心が必然的に現れてくる。

 信仰といはれるものの根底から、信仰とはおよそ反対のもの、反信仰的なもの、即ち我欲とか、権力欲、名誉欲、利欲とかいふようなものが、信仰の衣を着てくる。


 自分が極悪人だと自覚すること、或いはむしろ自覚せしめられることが、信の根本的な一契機になっている。それらの事はいづれも信仰による高ぶりの危険を破り、信仰を正しい信仰に導く道を意味している。


 人間に誇りと歓びを与へるすべての貴いもの、聖者の道、奇跡をおこなう力、いろいろな智恵、いろいろな科学、さらには宗教的な教化活動すらを含めて、そこには完全な歓びはないといふこと、そして完全な歓びは、自分が世間をだまして施物を盗む極道者だという自覚、それゆえあらゆる苦痛や恥辱や虐待を神からの賜物として、喜んで受け取るといふ忍耐、謙遜、愛にあるといふことを語ってゐるのである。

                                西谷啓治

無我→自分を捨てること→他力→自力無効