50年前の手紙

お経がうまく言えずに、まわりが心配して病院へ行けという。
孫が「ちゃんと行ってね」と言うので思わず約束をしてしまった。
仕方がないのでしぶしぶ行ったら、ほとんど待ち時間。
午前中いっぱい病院で待っていた。
明日検査、来週診察。
午後も別の病院。こちらは4月に手術をすることになったが、診察時間で済む手術だ。

それにしても病院で待合の人の多いこと。

ずっと書かなければと思っていたことを書いた。

50年前の手紙「解き方よりも問題自体を大切にすること

 50年前新任のときに一年生の子が私の教室に「お手紙です」と持ってきたことをありありと思い出すことができる。その同僚からの手紙を退職した今もまだ持っている。その手紙は私を苦しませるものだったので、当時真正面から受け取ることができなかったが、その後の私はこの手紙の課題を追求し続けてきた。

「上村先生、授業見せていただいてありがとうございました。いろいろ参考になりました。気づいたこと・質問等書かせていただきます。たった二十分程しか見てませんので、導入との関連で考えられないのであしからず・・・。発問が一問一答的なものであり、子どもたちに「解き方」その他系統的に入らないのではないでしょうか。K先生は応用問題に関して「解くこと」「正しい解答をすること」に意義があるのでなく、問題そのものを自分のものにさせることを重視しておられました。問題を読ませたあと、本をふせさせ、わざとまちがった問題を書いて問いかけられる方法に、当初私は「算数の問題にわざわざこういうことをする必要があるのだろうか」と思いました。でも、その後いく通りもの解き方を言わせ黒板に羅列して、ひとつひとつの正誤を見ていく中で、問題そのものが生徒の中に入りきっていくのを感じました。応用問題を「問題」とその「解き方」の両者を体得させることは、まさに他の応用問題にも応用できる利点があることを感じました。で、上村先生の授業を見て、応用問題をわざと計算問題として扱ってしまっているような危険性を感じた次第です。解く式を言っている時、子どもたちには・・・。」

 K先生というのは先輩のベテランの先生で、この手紙は私の自尊心を砕くものだったから、繰り返して読むことはできなかった。だから解き方よりも問題自体が大切と気がつきそれを「課題化」と定式化できたのははるか後のことだった。

 この当時、どんな授業をしていたのか全く覚えがない。でもこう考えていたのだろうと予想できる。それは、問題をどう解くかが大事で、その解き方を教えれば子どもたちは解く力を身につけることができると思っていた。問題の解き方の方に重点を置いていた。でも、問題はいろいろあり、どの問題にどういう解き方をすればいいのかわからなくなる。そして、そもそもその問題を見て解きたいと思う意欲が出てくるのだろうか。

 この手紙の友人は、私の授業とは全く異なるK先生の授業を見て、「問題自体を子どものものにすれば、子どもたちは自分自身の知恵を発揮して意欲的に取り組もうとする授業があることを知った。もちろん間違えることもあるけどそれはクラスのみんなの知恵で克服される。こちらの方がより応用範囲が広いのではないか。他の応用問題にも応用できる本道ではないか」そう語っているのである。そして、このことは「課題化」よりももっと大切なことを示している。それは「問題化」ということ。50年経ってやっと自分の問題にできた。自分の問題を見つけ、自分自身の問題にすることを。

「私の回り道」  ~「教育の情報化」と「数学の人間化」~

なお正確には48年前のこと