減少している「知識」

雪が降っている。
雪の中でどこにも行けないというのが昔の生活。店に買いに行けなかった。

それに対して便利な世の中になったもんだというのが近代化。
私たちはもっと便利にしようと無限に考え続ける。

ここの所「知識」について考えている。
便利になったのは「知識」が増えたからだろうか?
いや逆に全て自分で行っていたのを他人任せにするようになっただけで、
「知識」は逆に減っている。

一昨日検索数のことを書いたのでそれを例にとる。

 問題を解くために必要な知とは・・・そもそもこの問題ってテスト問題?
     ↓    ↓         そこにエモーションが入る
     解き方  答え        いい点数が取りたい 、認められたい
     ↓              手っ取り早くネットで検索しよう
  メタ解法を考える     ・・・ここまで考える人はかなりの知が必要で限られた人
     ↓
  学び方を身につける    ・・・これにはどのようなエモーションが必要か?
     ↓
   問いを思いつく     ・・・このエモーションは面白さしかない!

もし検索の動機が「先生に~を調べてきなさいと言われたから」だったら、
「答え」のみでストップする。それはため込むだけの「知識」で商品と同じ。

では問いを思いつく「知」はどこから出てくるのだろうか?
そこにはどのような「知」が働いているのか?
「やる気」はどこから出てくるのだろうか?

例えば「エラトステネスの問題」というのがある。
2000年前に地球の大きさを測った人である。
この問題をただ解くだけなら解き方も「答え」=商品となり消費されるだけ。
その解き方には二つの前提がある。
①地球が丸い  ②太陽光線が平行である。
この二つは突っ込みどころ満載なのにそれを前提にしている。

雲間から出てくる太陽の光線は平行には見えない。
それなのにどうして平行だと考えたのだろうか?と問いを持つ。
これは体験なのだ。

検索してすぐに答えを見つけても知は豊かになっていない。
便利になっても私たちの「知識」は減少しているのだ。
消費されるだけで生産されない点において。
2000年前と比べても。