知識創造の形成モデルとしての「SECIモデル」は有効か?

知識創造の形成モデルとしての「SECIモデル」は有効であるかの実験をいろいろやっている。

まず、知るという過程が暗黙知であることを自覚して、それをマスターするには数学をするのが良いというのは昨日書いたけど、これをどう表現してサイトに載せたらいいのかでいくつか書き上げてみた。すぐに不可能なことに気がついた。で、結局昨日のブログ記事をそのまま載せることにした。
ただ、難しい定理の証明を理解することについては暗黙知でうまく説明ができる。

次にKJ法やNM法やディベートとどう違うのか比べてみた。
KJ法は、たくさんの形式知並べて、帰納しながら新しい知識を見出すという「暗黙知」。暗黙知形式知に変換して共有するという共同化にあたる。
NM法は、類推による仮設設定法だから、それ自体が「暗黙知」で、中山さんも言っているように突き当ったら「寝る」という暗黙知の発動に任せるだけで、暗黙知そのものについては明らかにされていないが、連結化にあたり、仮説を作り出す。
ディベートは問題点を明らかにするためには良いけど、そこから総合された新しい知識や仮説は生まれない。

そこで実際に試してみる。
まず、午前中は地域協力隊の方にインタビュー。
これはとても面白かった。
いろいろなこと(知識)がわかってきた。しかもそれは体験を通じたもので、まさに暗黙知。それをどう共感するのかがポイントだけど、それはこちらの今までの体験と照らし合わせるしかない。
わかったことは、SECIモデルは、地域で変な人・面白い活動をしている人を探し出し、出会い、つながっていくという具体的なコトに置き換えられること。

夜はオンラインでミーティング。
議論の問題点とそこから出てくる課題を検討した。
問題を広げると議論がまとまらない、まとめようとすると問題が広がらない、
ということを感じた。
暗黙知は実際にやってみないと身につかないのだ。
しかもそれを進める組織にこそSECIモデルが当てはまる。
つまり、SECIをモデルとした組織をどう作るのかという問題なのだ。

もう一つ、技術的な問題がある。組織を活性化するためのMLの使い方、LINEの使い方、オンラインでの会議の仕方。でも、これらは技術的な問題で簡単に解決できると思う。共同化や表出化はMLでも十分可能。

組織が先にあるのではない。その組織を新しい知を生み出すものにできるのか。
それこそが問われているのだと言いたかったけど・・・。

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暗黙の知を再び語ることの意義 --身体技法の伝承場面を手がかりに--