この暑さの中で連研をした。
テーマは差別のこと。
私たちはなぜ「はらから」なのか。
同じ親からお浄土に生まれるからである。
その親は決して差別をしない。
私たち一人一人を一人子として接する。
私たちも浄土へ往ったら、一子地の慈悲心に達することができる。
この暑さの中で連研をした。
テーマは差別のこと。
私たちはなぜ「はらから」なのか。
同じ親からお浄土に生まれるからである。
その親は決して差別をしない。
私たち一人一人を一人子として接する。
私たちも浄土へ往ったら、一子地の慈悲心に達することができる。
「あわい」の話
「自ら」という字は「みずから」と「おのずから」と二通りの読み方がある。
これは二つを分けるのではなく、その「あわい」の中にこそ意味があるという話。
「あきらめる」という言葉にも「諦める」と「明らめる」の二つがある。
「自力」と「他力」も同じ。
これらを対立させるのではなく融合させる中に仏教の論理があるのではないか。
その「あわい」の大きさがだんだん大きくなるのが自然(じねん)だと感じる。
御仏飯もお花も線香も灯明も「みずから」仏に奉げるだけではなく、「おのずから」わたしにはたらきかけている。
お念仏も「みずから」称えるだけでなく、「おのずから」出てくる。
罪悪深重の凡夫の自覚と仏の慈悲と智慧の救いの「あわい」。
すべてが「おのずから」ではない。小さな「みずから」の人生の意味を振り返る。
「さようなら」は「左様なら」。これは「Good by」や「再見」や「アウフベーダーゼーエン」とは違う意味を持つ。
古文書を読んでいると「左のよう」にという言葉がよく出てくる。「そうであったなら」ということは、今までのことを受け止め、それで自分自身のことを決めるようなイメージだ。
今回は日本語の話で終わった。
「恩愛はなはだ断ちがたく 生死はなはだ尽きがたし」
まったくその通りだと感じる。
「サンサンハウス」で、ポプラの学童の1・2年生16名と笹船を作ってから近くの用水で流す→竹けん玉→竹ぽっくり・竹馬・水鉄砲をやった。
子どもたちのノリがよかった。
さすがに竹馬は2年生でも難しい。
竹ぽっくりは自在に乗り回していた。
水でっぽうが固すぎてスムーズに押せないというので、少し緩めにした。
ついでに取っ手も取り付けた。
輪と棒だけのけん玉はすぐにできたので、さらに難しい次のようなけん玉を3組作成。
笹船を作るのもなかなか難しかった。
「勉強よりも遊びが大切」
だって面白いから
人から学ぼうとする
集団から学ぼうとする
自然から学ぼうとする
子どもたちはなかなか笹船が作れない。
でも作り方を援助するとできるようになる。
他者の援助によって今日できたことは、明日(明後日かもしれないけど)は一人でできるようになる。
この差(あいだ・あわい)を「発達の最近接領域」という。
「私にできること」と「できないこと」と二つに分けるのではなく、その「あわい」の領域がしっかりと存在するのだ。
それも子どもの能力といってもいいというのがビゴツキーの説。
今日9時から11時まで寺子屋開始。
4名の参加。
勉強と遊び(竹馬と竹ぽっくり)
その後、竹ぽっくりをたくさん作った。
来週の月曜日にサンサンハウスでやる「元気っこ」の昔遊びのためのもの。
歩くといい音がする。
高いのを作ってみて試したら、高すぎて転んで怪我をしてしまった。
こういう遊び道具を子どもたちに与えても、ゲームの面白さには勝てない。
これらはすべてプリゴラージュであって、作ってこそ面白いものなのだ。
つまり大人がプリゴラージュするところに意味がある。
(もちろん子どもたちも作るに越したことはないが)
昔缶で作った覚えがあってそれが心に残っている。
竹はプリゴラージュの最適な材料だし、縄も藁から作る。
そこには豊かな文化があるのだ。