具象と抽象

今日は庭木の剪定、片づけ、サイディングの補修をやった。

暑くてとても疲れた。
 
サイディングの補修はペンキを塗るのだが、余りの暑さに夕方にやることにした。
前に天窓の壁が落ちてきたので、それはとても素人ではやれないと思って、プロにやってもらった。
 
この家も、築23年経つ。
あちこち補修をしなければならないところがある。
 
庭木の剪定はバリカンでやったのだが、
コードを切らないように注意してやっていたのだが、
置いたときに、コードを挟んだらしく、少し切ってしまって、ヒューズがとんでしまった。
 
慣れが怖いのか、初めてで緊張してガチガチになる方が怖いのか
とプロにたずねたことがある。
返答は、
緊張して堅くなる方が怖い、
でも、慣れて不注意になるのは危ない
だった。
 
作業の合間に読書。
現代思想ガロアの思考」にあった、高瀬正仁氏の「数学における抽象化とは何か
を再読。
数学における抽象と具象は、どちらもその発展の源泉なのだが、
特に抽象には問題を解決する力があるが、問題を生む力はない。
具象には数学そのもの(難問を創造すること)を生み出す力がある。
なぜ具象が生み出す力があるのかというと、
『具象はその人だけの体験であり、他の人に分かりにくいが、共鳴することができれば
「わかった」というゆるぎない実感が得られ、そこには深く鋭い喜びが伴う』
から。
 
ふと、「方程式の代数的可解性は根の相互関係によって規定される」という
ガウスの思想を確かめるために、3次方程式の分解式を再度確めてみた。
ついでに、円周等分方程式の根の相互関係も確かめてみた。
 
なるほど、具象とはかくも生命的であった。