明日から福井へ行く。
雪の心配があるけど、油坂を越えていこうと思っている。
年末に100分deでエチカを見て、スピノザの態度にとても興味を持った。
学生時代に買った岩波文庫のエチカは旧かな使いで読みにくいけど、愛着がある。
そして、原論の影響から、その表現形式が定義、公理、定理、証明、備考・・・
となっている。
その形式から説得モードだと思っていたら、國分さんは逆だという。
その論拠の一つが、エチカの語源エートス(場所、住処)。
道徳が上から超越的な価値や判断基準を上から押し付けてくるものだとすれば、
エチカ(倫理)は、自分がいる場所に根ざして生き方を考えていくこと。
スピノザは、実智でもって実相を探り、
権智でもって方便の叙述をしたがゆえに、このような表現になったと思われる。
スピノザの善悪の考え方は、感情を大事にする。
より大なる完全性へと移る際には、我々は喜びの感情に満たされ、
逆に反対の場合は悲しみに染まる。
この喜びの感情が高まるような方向が私たちの活動能力を高めてくれる。
自然界には善も悪も無いけど、
活動能力を増大させるものが私にとって善である。
この考え方は、親鸞さんの「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり。」
という考え方とつながってくる。
この中に能動と受動が出てくる。
それは自由と結びついて来るのだけど、中動態の紹介もあった。
これは「与格的主体」や「方便論的個人主義」ともつながるけど、
数学的にいうと、納得のモードと説得のモードの違い。(当然納得の方が大事)
もっと言えば、具象と抽象の違い。(当然具象の方が大事)
証明があってもその定理が理解できないというのはなぜなのか
という問題の一つの答えなのだ。
そして、これは龍樹の空思想ともつながる。
具象の中にこそ全体があり、個の中にこそ世界がある。
訳の分からない書き方になったけど、いつかもっと具体的に表現してみたい。
これは
「Total」と「whole」の違いなのかもしれない。
私のWholeというと、私の欠けたところの無い私
私のtotalというと、私の持っている全て全体
だからWholeは他者との関係の中で生じることですら含む。
私のtotalというと、私の持っている全て全体
だからWholeは他者との関係の中で生じることですら含む。
これはかなり違うでしょう。