念仏している時しか(エチカより)

エチカ 第二部を再読。
 
定理19
人間精神は身体が受ける刺激(変状)の観念によってのみ人間身体自身を認識し、
またそれの存在することを知る。
 
定理20
人間精神についても神の中に観念或いは認識がある。
そしてこの観念或いは認識は、人間身体の観念・認識と同様のし方で神の中に生じ、
また同様のし方で神に帰せられる。
 
定理21
精神のこの観念は、精神自身が身体と合一していると同様のし方で精神と合一している。
 
定理22
人間精神は、身体の変状(刺激状態)をのみならずこの変状の観念をも知覚する。
 
定理23
精神は身体の変状(刺激状態)の観念を知覚する限りに於いてのみ自分自身を認識する。
 
これを読んでいて、ふと思い当たったことがある。
以前、
私が念仏をしている時しか(私にとって)仏は存在(仏を認識)していない」
と感じたことがある。
これらの証明を読むと理由がわかる。
とすると、同様に定理23から
「私が念仏している時しか私は存在(私を認識)していない」
と言える。