普遍は具象に現れる

このビデオを見た。


ここの所、「物語 数学の歴史」 加藤文元著を読んでいる。
そこで疑問に思ったことが、抽象と具象の関係。
数学とは何か?という問いから次のような対比を考える。

計算       ・・・  見ること
アルゴリズム ・・・  外延
東洋      ・・・  西洋
式        ・・・  図形
算術      ・・・  幾何
離散      ・・・  連続
数える     ・・・  測る
【構造】    ・・・  【空間】

こういう対比の中から、結局、構造=空間へと至る。

計算が東洋で、見ることが西洋ということは、
和算を見ていると、実証はひたすら計算でおこなっていることから。
証明ではなく、計算なのだ。
これについて、和算における証明が計算であると考えたことがあるが、
いまいちピント来なかった。
和算の特徴とは何かがわからなくなったのだ。

高瀬正仁氏が、具象と抽象について書いていたのを以前読んだ覚えがある。
その中で、岡潔ガウスのことを取り上げていたので、このビデオを見たのだ。

高瀬氏の提案は、「洋算と和算との違いを明確にして、和算を再認識しよう。」というもの。
でも、岡潔ガウス和算がどうしても結びつかなかったので見たのだ。
その中で、加賀の和算家、関口開のことが出てきた。
彼は、洋算も独学で学んでいる。


この論文の最後に、
「 普遍と特殊という観点から見ると,洋算は特殊から普遍に向かおうとする傾向が顕著です.
形式化の手続きを経て普遍にいたります.
普遍の世界はさながら真理の世界であるかのようでもあります.
和算は特殊を観察しますが,普遍を顧みないというのではなく,
むしろ普遍は具象に現れると観念しているような印象があります.
個々の数学的経験を通じて普遍を悟るというか,感知しようとする姿勢を感じます. 」

と書いてあって、感銘を受けた。
特に、「普遍は具象に現われる」ということは、
和算だけでなく、高木貞治岡潔、そしてガウスにおいても同様であると主張している。
私は、このことは和算だけでなく仏教においても同様であると感じる。

理論(定理)を先に学んでそれを応用したり理解する方向とは異なる
理に関する数例を考えさせて、理を見つけださせるという方向
それは、
個々の数学的経験を通じて普遍を悟る
特殊から普遍への方向は同じだけれど、普遍は具象の中にこそ現れるという方向

これは現在の教育に対する提言(アンチテーゼ)になっている。