「存在それ自体の力」=本願力

振り返ってみると「シジュホスの神話」と「生きる勇気」はつながっていることに気がつく。
でも、意識していなかった。
 
ティリッヒにひかれるのは、彼がマルクス主義実存主義精神分析などとのせめぎあいの境界で、
自分の信仰とそれらとの対話をとことん続けたからだ。
神から下ってくるような説得ではなく、そういう対話を繰り返しながら自身が納得してゆく道を示している。
それは、ルター派教会の信仰をベースにしながら、対話を繰り返していく道であった。
たぶん、ルター派の牧師の子として生まれたことをベースにしていたのだろう。
 
ティリッヒは、「存在そのものの力」=「神を超える神」という言葉を使っている。
それは<存在への勇気>〔生きる勇気〕と記している。
「存在そのものの力」によって受け容れられていることを受け容れる。
 
「十字架につけられた彼は、彼が信頼していた信頼の神が、彼を、絶望と意味喪失の暗黒のなかに見捨てた時にも、なお彼の神でありつづけたその神に向かって叫んだのである。」
 
彼は、「自己肯定=自己受容=勇気」をスピノザから見出す。
エチカ第三部定理七
「いかなるものでも自己の存在に固執しようとする努力は、もの本来の生きた本質にほかならない。」
その努力があるものをして真にその物たらしめるのであって、
「それが除去されると、そのものが必然的に消滅するようなもの」である。
自己保存や自己肯定への努力が、ある物をしてその物たらしめる。
 
しかし、近代の末期たる現代は、空虚と無意味の精神的不安にさいなまされている。
とすると、無意味性の不安を自己自身へと引き受ける勇気こそが「生きる勇気」である。
 
「全体の部分としての自己を肯定する自己肯定」
「一個の個人として自己を肯定する自己肯定」
どちらも勇気なのである。
そして、それが「存在それ自体の力」なのである。
これを本願力と考えてしまう私がいる。
 
スピノザの自己肯定は、自愛であり、正しい他者への愛である。
一方、利己主義は、自己執着であり、他者悪用とリンクしている。

なお、「他律」「自律」「神律」は「自力と他力」の考え方とよく似ている。