「自己肯定感」と優越感

罪悪深重の凡夫」と「自己肯定感が無い状態=自己否定」は全く異なる。
 
どう異なるのか。
その自覚を受け容れる存在である仏がいるかいないかの違いである。
仏がいることによって、自己否定は絶対的な自己肯定になる。
 
私が、生活の中で愚かな私に気づくことは自己否定である。が、
それは常に「だからこそ」という肯定に転化する。
根底に、包まれている感覚がある。
 
愚かさの自覚は事実である。
決して自虐的な偏った見方ではない。
私が愚かで罪悪深重の凡夫であるというのは、一つの見方ではない。
事実なのだ。
私は今日、罪を犯すかもしれない。
その意味で、地獄一定すみかである。
そして、私のありのままのあり方である。
 
では、「自己否定=自己肯定感が無い状態」とは何か?
それは、どこかに優越感を持っているからかもしれない。
また、子どもの頃からの虐待により、心が傷ついているのかもしれない。
 
最近よく言われる「自己肯定感」が、優越感にすぐにつながっているのも逆の現れであろう。
「私は素晴らしい=他を見下す」という過ちをおかす。
仏法は昔からそれに気がついていた。
 
それを否定し、しかも生きるに値する勇気を与えてくれる思想こそが
「罪悪深重の凡夫=愚」の自覚である。