これだけは記しておかねばならない。
ティリッヒは、
この世の生の現実の問題の答えを、キリストの中に求めるのではなく、
キリストを知ることを、この世と生を知ること(問うこと)の中に求める。
このキリストという言葉は代入可能な言葉である。
そして、「生きる」ということの意味を指し示している。
宗教の世俗化の問題の答の方向も。
ティリッヒとの出会いは、
この世の生の現実の問題の答えをどこかに求めていた私であったこと、
そして、知ることの中にこそ大事なことがあることを自覚することであった。
つまり、親鸞さんの中にその答えを見つけることではなかった。
この世の生の問題を問うことが、親鸞さんを知ることであった。
その道を生きる勇気(=自己肯定)をもって歩んでいく。