「生活とは何かを問うていく過程、それが生活だ」

やらなければならないことと、やりたいことがいっぱい重なって、身動きが出来なくなっている。
自業自得である。
 
土曜日に岐生研の常任委員会があって、そこで学んだことを書いておく。
 
生活とは何かと問うていく過程、それが生活だ
 
これは、生活綴り方の北方性教育運動のリーダーであった佐々木昂(たかし)の言葉らしい。
それを聞いて、自分がずっと追求してきたことの意味がつながった気がした。
 
答を求めているけど、その先にまた問題が出てくる。
答に安住してしまうと生き生きとした感覚が失われてしまう。
そういうことは何度も経験してきた。
この言葉は、生活そのものと真っ向から向き合っている主体者であろうとする誇りを表わしたものだ。
 
そして、この言葉の「生活」をいろいろな言葉に置き換えることができる。
「仏教とは何かと問うていく過程、それが仏教だ」
「数学とは何かと問うていく過程、それが数学だ」
「生きるとは何かと問うていく過程、それが生きるということだ」
「私とは何かと問うていく過程、それが私だ」
 
昨日、話していた時、
「私という存在を神はなぜ生み出したのか聞いてみたくなる時があります」
と問われた。これは間違いなく問いなのだと感じた。
「私はなぜこの境遇に生を受けたのか」
「私の生きている意味は何なのか」
「私の人生に意味があるのか」
・・・
そう言いかえることができる。
 
「本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし」
 
この「本当の願い」こそが、この問いそのものだと感じる。