善財の問い=菩提心=普賢の行願

様々な善知識への善財童子の問いが素晴らしい。
 
例えば、
  私はさとりを求める心を発しましたが、
  いまだどのようなものが菩薩の行であり、どのように実践するのかわかりません。
○いかに学び、いかに実践すべきか?
○どうしたら生死の苦の中においても菩薩の心を失わずにいられるのか?
○いかにして智慧の光をもって世間の闇を滅することができるのか?
○いかにして智慧の力をもって真実義をさとることができるのか?
○菩薩はなぜ仏とならないのか?、なぜ輪廻の道に現れるのか?
○諸仏の不可思議であり説くことはできなとされながら、なぜいろいろな言葉をつくして説かれるのか?
○一切は空であり業報もないと知りながら、なぜ業報の恐るべきを説き続けるのか?
○菩薩の道はいかに行き、いかに修するのか?
 
それに対して、善知識たちは答える。
 
まず、問うべきことを問うことの尊さを、
それが普賢の行願を修する者の問いであることをほめたたえる。
そして、諸仏の威神力をうけ、因陀羅網を得てこそ智の光明を放ちうることを明かして答える。
 
例えば、
善財は、菩薩の道はいかに行き、いかに修するのか?と、善知識の一人自在主童子に問う。
その時、自在主童子は一万の児童と砂遊びを楽しんでいた。
 
文殊菩薩は私に、数学、占い、統計などを教えた。
私は、都市を設計し、機械の扱い方、農耕や商業の実務の知識があり、
善と不善を見分けて人々が地獄や餓鬼道に落ちるのを防ぎ、人々に糧を与える。
菩薩の算法をもってすれば、巨大な砂山の砂粒の数を知ることもでき、
一切世界の設計を知り、無量の仏・菩薩の数、衆生の無量の業を了知することができる。
しかし、私はただ、この巧術智慧法門(技術の智慧の明るみ)を得ているに過ぎない。」
 
そう答える。
数学をやっていた者として、数学を教えていた者として、とても共感できる。
砂遊びの場面は、学びの場としてのイメージが彷彿としてくる。
 
これらの問いの「答え」が大事なのではない。
答は、問われることによって初めて現れるのだから。
 
そして、これらの問いは願いである。
願いをかなえることが、願いを立てる本当の意味ではない。
願いを立てただけで、モノゴトが動き出すことはありえない。
だから、願いがかなうことを当たり前のように思ってはならない。
 
しかし、本当の願いはやがて力をもち、力は自然にモノを動かすようになる。