パウル・ティリッヒ「生きる勇気」

「生きる勇気とは、我々が受け容れられえない者であるにもかかわらず受け容れられている
そのわれわれ自身をわれわれが受け容れるという勇気である。」
 
「受け容れられていることを受け容れる勇気は、善人だからあるいは賢い人だからあるいは敬虔な者だから
それを与えられるというのではない。
むしろ、これらすべての資格を欠いている者、そして自分は受け容れられえない者であるということを
知っている者に与えられるのである。」
 
「このことは言うまでもなく自己をそのままに受け容れるということを意味しない。
それは人間の偶然的な個性を正当化することではない。
この勇気は、人間が自己自身であろうとするところの実存主義的な勇気と混同されてもならない。」
 
信楽俊麿師のご縁で、パウルティリッヒの「生きる勇気」を読んでいる。
まるで親鸞さんを読んでいるような感覚に襲われる。
しかも、分かり易い表現である。
彼は、この「自己肯定」はいかなる道徳的、知的、宗教的な前提とも関わりなく、それから独立している
と言っている。
 
そして、
「この〈受容〉とは、私たちの内的な自己を無限に超越しているところの何者かによって私たちが受け容れられているという逆説的な行為を意味する。」
その超越者は、
「一個の人格に体現されていなければならない。人格的ではないそれ以下のものであるような何ものかによって受け容れられたとしても、その人の人格的な自己拒絶は決して克服されえない。」
 
「人間は人格と人格とのかかわりのなかに受け容れられるのでない限り、どうしても自己を受け容れることはできない。しかし、たとい人間が人格的に受け容れられるとしても、その受容されている自己を肯定するためには、自己を超越する勇気がなければならない。」
 
彼はさらにカウンセラーと患者との関係にはこの受容がとても難しいことを語っている。
彼の「自己肯定」が、罪責の消滅を意味するものではないからだ。
今まで、自己肯定感をどう表現するのか悩んできたが、ここに見事な一つの表現があった。