シジフォスの神話

今年の雪は例年の3倍ほどである。
3倍の概算は、除雪機の燃料からのものである。
除雪をすると、そこにまた雪が積もる。それをまた除く。
掃除とよく似ているが、これがけっこう肉体的につらい。
昨日一日かけて除雪したのに、今朝起きたらまた雪が積もっている。
この時、雪が解けるまでしかたがないとほかっておく手がある。
実は今までそうしていた。
 
雪かきはシジフォスの岩と似ている。
でも、私たちの仕事はすべて同じようなものである。
これを無意味な労苦と考え、人間の宿命ととらえるとらえ方がある。
 
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昔、カミュの「シジフォスの神話」を読んだ覚えがあるが、内容はすべて忘れてしまった。
だから、今の私の勝手な解釈を書く。
 
同じことを繰り返している人間の愚かさは、悲しみである。
その悲しみをジシフォスは示しているのだと思う。
 
でも、ゼウスはシジフォスにこの罰を与えたのだが、実は罰にはなっていない。
まず、岩を持ち上げることにおいて、ここまで運んだという充実感。
そして、岩が元に戻ったとしても、それはゼウスだって同じではないかということ。
苦と快楽とを分けたつもりだろうが、結果は同じだということ。
この意味において、罰にはなっていない。
 
私は、岩を懸命に持ち上げて、たとえそれが元に戻っても後悔はしない。
 
でも、同じおろかさを繰り返す人間の行為は悲しみとしか言いようがない。