六道の因忘じ、輪廻の果自ずから滅す・・・因の中に生きること

「私は様々なものに縛られている」
という自覚には、両面がある。
 
自由ではないといいうことと、縁起ということである。
そこから自由になりたいという心と、そういう縁起の中で自分自身が存在しているという二つの自覚だ。
それは自分を縛っていたモノと、それによって成り立っている自己の両面の自覚と言っても良い。
 
厭へば即ち娑婆長く隔たり、欣へば即ち浄土常に居す』  善導
 
この場合、大事なことは因果のとらえ方である。
地獄・餓鬼・畜生も因と果がある。
 
六道の因亡じ、輪廻の果自ずから滅す
 
どんな苦悩多き人生だとしても、「自分が自分に帰りたい」「生まれてきてよかった」「生きてきてよかった」
と言えるものが欲しいと誰もが願っている。
それは、因果をどうとらえるのかという問題でもある。
でも、自分が縛られているということの自覚のなんと難しいことか。
 
しかし、因果が亡じぬれば、形と名とたちまちに絶ゆ
 
だから。
 
果を求める人は因を嫌う
でも、因こそが自ずと果を生み出す。
だから、因の中に生きることは、安心して迷える道である。
苦悩の身、迷いの身に堂々と帰って生き抜いていく。
つまり、
自分の思いが転じられて、本願に生きるものとなる。
これを往生という。
 
昨日の映画「あん」の主人公千太郎の生き方はこれだと思う。
そして、徳江さんの。
現実を問うのではなく、現実から問われているモノの生き方である。