「コピペ」から独創へ

 『括弧の意味論』という本を読んだことがある。
 
括弧「」()『』はとても面白いはたらきを持っている。
括弧は会話だけではなく、引用や強調、通常とは違うという意味もある。
これから使う括弧の中は、「コピペ」(又は)「特別の意味」である。
 
昨日の「自分の意見は世間に散らばった言葉からできている」について。
まさにその通りだと思う。
 
さらに仏法的に言うと、
「自分の意見だ」などと言うこと自体がおこがましい。
私たちは縁起として立ち上がっている存在だから、
その言葉や意見も縁起の中で立ち上がってきたものだ。
それを「私の意見は~です」など自分のもののように言うことは、
自然の道理から外れていることになる。(公共の私物化)
 
同時に、自分の意見(言葉)が、「世間に散らばった言葉」からできていることも強く自覚する必要がある。
でも、私たちは、自分が「コピペ」して語っていることを自覚していない。
どうやら私たちは「コピペ」からのがれることはできないようだ。
 
さて、我らが親鸞さんの主著『教行信証』は実は「コピペ」の集まりである。
ほとんどが古今東西の様々な経や論、釈からの引用からできている。
しかし、世界で最も独創的な書である。
 
「コピペ」でできているテキストが、
どうして独創的なのかが昨日からの論題であるのだが、
秘密の一つは編集にある。テキストの編集が独創的なのだ。
 
ただ、親鸞さんは、自分が編集したという意識は持たれていなかったと思う。
仏の言葉を聞いていたら、自然とこういう編集になったということであろう。
いや、こうならざるを得ないと思われていた。
(これもどこかから「コピペ」した言葉かもしれない)
 
親鸞さんの編集のし方の中に、「コピペ」でどう編集するかという問題と、
オリジナリティとはどういうものかという問題に対する一つの答えがある。
それを(勝手に)まとめると、次の3つ。
 
(1)テキストの並べ方
(2)テキストの新しい読み方
(3)その並べ方や読み方で新しい世界が見えてくるか
 
「コピペ」でいうと、「コピペ」したものをどう並べるのか
「コピペ」したものをどう読みとるのか
その並べ方や読み方でどんな新しい世界が見えてくるか
 
それは全てテキスト(=コピペ)の「読み」の問題と言ってもよい。
だから、ここにはまだまだ読み解かなければならない問題がある。