「執着」と「愛情」の違い

経済とは生き方の問題である。
つまり、何を求めて生きているのかという問題。
その場合に起きる問題が、モノやコトへの執着。
そこで、仏法の煩悩の一つ「執着」と「愛情」を対比させて考えてみる。
 
問題提起:「それは執着です」と、「それは愛情です」と、区別ができるか?
 
愛とストーカーの区別がつかなくなっているのが、私たちの今の状態なのではないだろうか。
ストーカーは執着と括っても、愛だって執着ではと思ってしまうのではないか。
お金に執着するはいけないけど、お金を愛することはいいの?・・・なんだかおかしい。
 
では執着とは何か?
執着は「事物に固執し、とらわれること」という心の状態を示す。
何かに縛られている状態で、それは自己愛から来る。
自己愛は自己嫌悪とワンセットになっていて、自分(の感情)を肯定されたことのない状態で、
常に自己嫌悪を感じ、それを解消するために常に自己欺瞞を犯している。
自己欺瞞は、虚栄や憧れを生み、利己心を育てる。
その利己心でとらわれた状態が執着である。
つまり、外部への服従によっておきる、自分自身の価値を他人に認めさせるという行為が執着を生み出す。
 
でも、これでは愛情との区別がつかない。
そこで愛情と対比する。
愛情は、自愛=自分自身が受け入れられたという経験から生じる。
そして、自分の感情が肯定されているので、自己感情に自信をもつ。
この感情は、自分自身であることをベースにしている。
したがって、喜びも安楽も自分の内面からのものとなり、他から左右されない。
何をすればいいのかも自分で決めることができ、多数の他者に依存できる状態であるから安楽である。
だから、モノゴトに執着することなく、愛することができる。
 
まとめると、一方的なコミュニケーションが執着(ストーカー)であり、
コミュニケーションが成立しているのが愛情である
 
もちろん、私たちはいつも自愛の方にいるわけではない。
ふっと気がつくと、執着の方に、自己嫌悪の方に引きずられてしまっていることがある。
そこで、罪悪深重の凡夫の自覚が必要となる。
念仏者は、念仏によって自分の執着に気がつくことができるので、安心して生活することができる。
罪悪深重の凡夫の自覚は決して自己嫌悪ではない。
その気づきは、仏の光があたっているから、という救いの自覚である。
 
ネクロフィリア・エコノミックス
自己嫌悪→自己欺瞞   →虚栄   →利己心 →選択の自由→最適化(その中での)
自愛→自分自身であること→安楽・悦び→自律・自立→積極的自由→創発
ビオフィリア・エコノミックス
 
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これは本当はへこんでいます。
カメラは間違った見方をしてしまいます。