「我生何処来 去而何処之」

近藤郁夫さんの「生老病死と生活指導」を読み直した。
その中に、良寛漢詩が出てくる。
 
 我生何処来   我が生は何処より来り
 去而何処之   去りて何処にか之(ゆ)く
 独坐蓬窗下   独り蓬窗(ほうそう)の下に坐して
 兀兀静尋思   兀兀(ごつごつ)として静かに尋思す
 尋思不知始   尋思するも 始めを知らず
 焉能知其終   焉(いずく)んぞ 能く其の終りを知らん
 現在亦復然   現在亦復(また)然り
 展転総是空   展転総べて是れ空
 空中且有我   空中に且(しばら)く我れ有り
 況有是与非   況(いわ)んや 是と非とあらんや
 不如容些子   如かず 些子(さし)を容れて
 随縁且従容   縁に随ひて且(しばら)く従容(しようよう)たるに
 
近藤さんは、「我が生は何処より来り  去りて何処にか之(ゆ)く」と最初の句だけを引かれていた。
そして、中野孝次の訳をつけられていた。
 
 自分のいのちはどこからきて
 去ってどこへ行こうとしているのか
 ・・・
 なるがままにまかせて
 ゆったりとした気持ちで
 この束の間の人生を生きよう
 
この最後の句は、良寛の一つの境地を示すもので、他の言葉でも出てくる。
 
 騰々任天真   ぼんやりとして、あるがままの天然自然の真理に自分を任せきっている
 
私が惹かれるのは、むしろ初めの二句の対句だ。
そして、去る方よりも来る方に興味がある。
来る方と去る方は同じ所のような気がする。
そうすると、この娑婆世界に生きる意味もひろがってくる。
輪廻の意味も浮かび上がってくる。
苦も楽も変わらない。
 
意味がひろがることにこそ意味があると思う。
 
山越え阿弥陀図に五色の糸をたらしてみた。
 
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