流念難思法海

 河久保道場の正面に掛けてあったあった軸に書いてあることが気になったので調べてみました。
 イメージ 1
最初、教行信証の化身土巻にある
樹心弘誓仏地 流念難思法海
 心(こころ)を弘誓の佛地に樹て、念(おもい)を難思の法海に流す。
と思いましたが、念の字が合いません。
 
もう一つ、浄土文類聚抄に一字違う句がありました。
樹心弘誓仏地 流情難思法海
 心(しん)を弘誓の佛地に樹て、情(こころ)を難思の法海に流す。
 
調べてみると、玄奘三蔵大唐西域記
『心(しん)を仏地に樹て、情(こころ)を法海に流す』
とあり、これを浄土文類聚抄で引用されているように
(しん)弘誓の佛地に樹て、情(こころ)難思の法海に流す
と仏地を弥陀佛の本願の大地に、法海を不可思議の大海に置き換えられ、さらに化身土巻では、情を念と変えられたのでしょう。
 
念は念仏につながり、心の働き。非常に短い時間。対象に向かって心を集中し冥想する。という様々な意味があります。
 
前半の「弘誓の大地に樹て」の方は、
 
光明寺の和尚(善導)の、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたり、といふこころなり。
 
ということだと思います。
 後半の流すは、水に流すのではなく海に流すことです。
そして、この海は一乗海であり、大信海であり、本願海です。
 
『海に入ればあらゆる水が同じ塩水に変わるように、弥陀の本願海には、凡夫も聖者も、五逆謗法の人でも一味の徳に転じられる。(中略)さらに海は死骸をたもたず、浮かばせ、浜辺にうちあげてしまうように〈死骸は自力の心をさす〉、本願の海には自力の心をもっては入ることができず、その心が取り除かれて、受け入れられる。』
 
 娑婆世界では、私たちの立っている所は、それぞれの生まれた環境で様々に異なってきます。金持ちに生まれた人と貧乏に生まれた人では育ちが異なってくるでしょう。でも、弘誓の仏地(浄土)では同じなのです。そして、難思の法海(浄土)は他力の信心を教えてくれます。