「別れのワルツ」を歌えるようになったのは誰か?

知り合いから、蛍の光は4拍子だけど、パチンコで最終にかかる蛍の光は3拍子だと聞いた。
パチンコの方は「別れのワルツ」という曲らしい。
そこで、3拍子で歌ってみた。
 
歌えない。
すぐに4拍子になってしまう。
ユーチューブで聞くと歌えるが、一人で拍をとりながらやるとダメなのだ。
でも、歌詞を書いたり、拍子をとったり、何回もやっているうちに、どちらでも歌えるようになった。
 
さて、この時、私の中で何が変わったのだろうか?
そして、3拍子と4拍子の違いはどこにあるのか?
 
もちろん、リズムは全体のイメージを決める。
でも、3拍子と4拍子は、単なるリズムの違いではない。
言葉をどう句切るのかという問題なのだ。
言葉は句切り方によってイメージが異なってくる。
特に母音を入れて拍を調整するので、音となったことばが異なる。
 
私は音楽があまりわからない。
でも、この実験で、拍子というものが少しわかったような気がする。
ここで、今まで考えてきた問題と関連させる。
 
この入力は自分自身で行っている。
そして、それを観察している私がいる。
入力している私が、どうしたら歌えるかとフィードバックしている。
この時の入力されている「私」に注目したい。
 
変わっているのは入力している私ではなく、練習して変わろうとしている「私」なのだ。
観察している私も変わっていない。
歌えるようになった「私」は確かに変わっている。
でも、何が変わったのかわからない。
そして、何度も練習したことから言えば、変わるのは簡単ではなかった。
どうやって変わったのかもあまり明らかでない。
 
ブラックボックスという命名は見事である。
私たちには「それ」は見えないのだ。
 
    指月の譬  ( 言葉「 指」と真実「 月」)
「指月の譬」えで、月を指さしている人には月が見えている。 
しかし、指さされた私たちには月は見えない。
見えないから指を見る。
でも、その指が見えるのは、月の光があたっているからこそ。
だから、私たちは、月は見えないけれど、月があることがわかるのだ。