ポール・ティリッヒの象徴論

信楽俊麿師の「親鸞とその思想」という本に、ポール・ティリッヒの象徴についての考察が示されている。
とても面白いので、ここにまとめておく。
 
(1)象徴というものは、それは何かこの世俗を超えた、究極的な真実を指示している。
阿弥陀仏や名号、その他の言葉、地獄や浄土の話。
そういううものは、みな象徴表現で、それは何かこの世俗を超えた、究極的な真実を指示している
 
(2)象徴というものは、何かを指示しているのだけれど、同時にそのもの自体に深くかかわっていおり関係を持っている。
指というのは月を指示して、その指を通してこそ、はじめて月を仰ぐことができるが、
この指は単なる指ではない。指は月の光を浴びてこそ、はじめて指は指そのものの働きを持つことができる。象徴は究極的なものの自己開示に他ならない
 
(3)その象徴によってこそ、私たちははじめてこの世を超えたもの、究極的な真実、実在に出会うことができる。
この象徴なくしては、私たちは究極的な真実、阿弥陀仏に出会うということはできない
 
(4)象徴というものは、私たち自身の一人ひとりの魂の最も深いところ、その深層を開いてくれる。
日々において、仏像を拝む生活を続けるということは、やがてその仏像の背後にある究極的なもの、この世を超えた存在について、私自身が眼を見開いていくことになるが、
それは同時に、そのことを通して私自身の霊性がしだいに育てられてくることでもある
 
象徴は、常にそれぞれの時代と社会の中で再解釈していかなければならない。
象徴はある歴史的社会的な状況の中で必然的に成立してきたもの。
状況が大きく変わったら象徴は消滅していく。
だから、象徴を伝達するについては、それぞれの社会のなかで、どうそれを再解釈していくか、そのことで象徴はその生命を長らえることができる。
そうでないと、その象徴は空しく形骸化し、呪術化してその生命を永遠に失ってしまう。
 
自然法爾章はこの象徴について述べたもの。
阿弥陀仏とはこの宇宙を貫いて流れ、人類の歴史を貫徹している究極的な真理。
阿弥陀仏は、その真理、道理を私たちに知らせるための象徴であり指である。
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これは、私のテーマである「指し示し」と方便法身と法性法身と大きく関連している。
こういうとらえ方は古今東西を問わないのだろう。