この議論は私の学習になったか

庭でツグミを見たのは初めてだった。
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子どもの頃、カスミ網で捕ったツグミを食べたことがある。
こんなにかわいい鳥だったのかと、とても後悔する。
 
私はどうも議論が好きで、親しい人とよく論争になってしまうことがある。
最近まで、議論で相手を変えようと躍起になっていた。
しかし、学習は意味を含むフィードバックそのものである。
学習は、自己の適応回路そのものを変えるフィードバックである。(ウィーナー)
だから、議論の情報は、私自身にフィードバックする学習であり、私を変えていく。
 
とすると、議論によって学習が可能になるのは、フィードバックがなされているかによってである。
そして、それがわかるのは、かろうじて私のことだけなのだ。
私は議論しながら情報を生み出している。
それは互いを(自分自身も)知ることであり、他者に影響を与えることであり、そして、生きることである。
 
生きているということは、外界からの影響と外界への行為との絶え間ない流れに参加することであって、
 我々はその流れの中の変遷の舞台であるにすぎない。
 生きているということは、世界に生起する出来事に対して、
 知識の絶え間のない発展とその妨げられることのない交換として参加することである。」 (ウィーナー)
 
ところで、変化というと、私の世代は進歩と考えてしまう癖がある。
世の中は進歩してきたとか、科学の進歩とか、技術の進歩とか。
でも、私は進歩しているのか、世界は進歩しているのか。
科学や技術の開発が本当に進歩になっているのか。
私自身を見ても変化は必ずしも進歩とは言えない。
私は成長しているとは言えないけれど、成長したいと強く願っている。
 
私は、自分の能力を十分に発揮できずに死を迎えるかもしれない。
同様に、人類もその能力を発揮できずに、滅びるのかもしれない。
しかし、私は、できうる限り自分の能力を発揮できるように長生きがしたい。
だから同様に、人類についても、持つ能力を十分に発揮できるように長く続いてほしい。