ながむる人の心にぞ住む

出雲へ行ってきた。
小牧空港から出雲空港までの直通便が3月30日に開通。
機体はとてもカラフルだ。往きはグリーン、還りはライトブルー。
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この機体だと、出雲まで1時間で行ける。
小牧までの1時間弱を合わせても、3時間で行けるのは驚きである。
 
叔父の7回忌法要。
もう6年たった。
法要の後、例によって仏法の話で盛り上がる。
 
その中で、私なりの発見があった。
法然上人の有名な和歌がある。
 
  月影のいたらぬ里はなけれども
            ながむる人の心にぞ住む
 
私は月影と影を入れられたわけをずいぶんと長く誤解していたようだ。
月の光があたるということは、月は当然見えていると思い込んでいた。
この歌は、月と仏、月影と仏の慈悲の光、ながむる人と私がアナロジーになっている。
だから、つい、月は見えるのに月(仏)はなぜ心に住むのだろうかと思っていたのだ。
 
「指月の譬え」では、私たちには月は見えていない。
そう考えた時に、月影の歌をやっと読むことができるようになった。
 
月の光が里の全てにとどいているように、仏の光もすべての人にとどいている。
その月影に気がついて月を眺めようとするように(月はまだ見えていないがちゃんとある)、
仏の慈悲の光に気がついて、仏を見ようとした人(念仏を称えた人)の心の中に(すでに)仏は住んでいる。
 
「月影」と言われたわけがやっと納得できた。
仏の慈悲の光は私たちの影を明らかにする。
私たちに見えるのは、その影(煩悩)である。
でも、私たちの影が見えるのは、仏が私たちの心に住んでいるからである。