「伝達の話法」から「対話の話法」へ

7/10の朝日新聞に、
「プレゼンする力」という特集記事の中の3人の談話の中で鷲田清一さんの話が載っている。
『口べたでいい 確かな言葉を!』
「すらすら、なめらかに話す。言いよどんだり詰まったりしては駄目。何度も練習して臨む。それが、僕のプレゼンテーションのイメージです。元はといえば、営業マンが売り込みのためにやるものですからね。・・・それを教育のモデルにしたら最悪です。例えば、子どもにプレゼンを求めると、自身を見込みのある物語にはめ込み、語りをほころびなく完結させる。人格や個性が商品になる。そうなると、子どもは二極分化してしまいます。一方に、勝ち負けを追求する戦略家。他方には、自分を高く売りつけるゲームがしんどくて、降りる子。どちらも学ぶ意欲は限りなくゼロに近づいてくるでしょう。・・・もちろん、自分の思うことをどう伝えるかは大事です。要は、言葉にならないところで格闘するプロセス。自分がどう考えているか、他人からどう思われるか不明なまま、いいことも悪いことも率直に口にし、言葉をざらざらとこすりあわせる。そうしているうちに、新しい言葉が立ち上がる。」
 
ユニクロ柳井正さんの「世界と競う教育に」という意見も載っている。
私はこちらの方を興味深く読んだ。
「グローバル人材に求められるのは、人種、文化、宗教を問わずコミュニケーションができる能力。・・・横並び教育は、世界最悪。音楽でも、趣味でも競争させる。競うことによって他人とは違うことを考え、相手に伝え、実践するようになる。」
 
ある意味でまったく違うような意見に思われる。
とすると、これほど意見が違う世の中で、どういうように合意を作っていくのか。
多数決ではなしに!
 
「"いろんな人がいる"が当たり前の教室に」のスローガンは、
とても普遍的(グローバル)で、そういういろいろな人がいる世界をまず前提にして、
次にどうやって合意をつくり出していったらいいのかという提起でもある。
 
様々な意見の違いの中で、どうやって合意を作り出していったらいいのか。
そのためのシステムや方法は?
ということが、今私が最も興味あることなのだ。
そこで、子安さんのサイトから「対話」についての補足
 
「伝達の話法」から「対話の話法」へ
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 今支配的な授業の話法は、「伝達の話法」だ。教えるべき内容として、知識や技能そして道徳の項目が決まっていて、これをいかに教えるかに腐心している。うまく教えるとは、管理された内容のより正確なコピーを生み出すことになっている。

 それは、かつて「問答法」(ソクラテス)としてつくり出され実践されてきた授業の組み立て方だ。それは予定した正解を言わせてしまう方法として誕生した。多くの場合誘導尋問であることが多かったが、長い間広く実践されてきた。学びのある種の局面では有意義なこともあるかもしれない「問答」だが、今は肥大しすぎている。とりわけ、思想や価値判断に関わる事柄、あるいは一義的に解答が定まらないはずの事柄、さらには未だ合意には無理な集団状況の場合にも「問答の話法」が適用されている。「問答の話法」の場合、学ぶということは学習者に想起させることであり、想起させる巧みな質問をつくることが重要と考えられていた。これを「対話の話法」に組み換える必要がある。
 
 「対話の話法」とは、相手の主張に自分の意見を変えたり、新しく合意できる見解をつくり出す話法である。自己の意見を主張しながら、相手の声に耳を傾ける話法である。意見の一致を見ない時には、複数の見解のままに棚上げにしておくこともあるし、思想・信条や価値観に関わる討論では決定をしない作法を持つ話法である。
 具体的には、例えば次のような働きかけを意識的に追究してみてはどうだろうか。
 
 1)子どもの主張の真意・意味合いを尋ねる。子どもの主張の由来・事情を尋ねる。教師が積極的に、子どもの言動の意味を複数に解釈してみせ、どれかを尋ねる。時には、それ以外かを尋ねてみることがあってもいいだろう。
 2)子どもの主張の世界を子どもの視点の側から描いてみる。疑うことなく、その世界から見ると、こちらの世界はどう見えるのか、納得してみる。
 3)意見を表明しない自由のあることを明示しておく。
 4)合意が得られた場合も、暫定的合意点であることを強調しておく。

 対話の話法の基本は、声を聞くこと、根拠を追究することにある。だから、決して「答えは色々ある」と、新学力観の指導論のように「それもいいね」と言うことではない。当然、一方的に答えをまとめ上げていくことでもない。「対話の話法」の発明が期待される。
 
子安さんのサイトからhttp://koyasujun.info/