薪づくりと大和古文書読ままい会

久しぶりに晴れたので山に置いてある木を運んだ。
重くて持ち上げられないのでチェーンソーで切って運んだ。
気温が上がらないうちにと思っていたけど、結局2時間かかり汗びっしょり。
もっと早めに梅雨に入る前にやっておけばよかった。
気象庁が梅雨明けを宣言。

午後からは大和で古文書よまい会に参加。
クーラーが入っていたけど窓を開けたままだったので、30度の中で二時間読み合った。カーテンが閉まっていたので気がつかなかった。

天保13年10月21日に出された公儀御触書の解読
「古金銀を引き換えるために引替所を設ける(銀座と大阪と京都に)」と書いてあるが、読んでいてもあまりわからないので調べてみた。

文政・天保の改鋳

天保一分銀
老中・水野忠成主導により、約80年ぶりに文政元年(1818年)から天保にかけての貨幣改鋳が実施される。文政元年から天保3年(1818年 - 1832年)にかけての改鋳は11代将軍・徳川家斉の浪費が、天保8年からの改鋳は天保4年から7年(1833年 - 1836年)にかけての大凶作による支出増がその理由とされる。

老中・水野忠邦の側近で「水野の三羽烏」と呼ばれた後藤三右衛門光亨の発企による文政・天保の改鋳の目的は、当初から、傷んだ貨幣を新品と交換する「吹き直し」であり、元文の改鋳時のような割合通用から「旧金1両=新金1両」という同額通用を命じている。商人たちはこの原則には従い、以後の改鋳でも同様の同額通用の原則が適用され続ける。

丁銀を除き、総額484万両にのぼる金銀貨が鋳造され、そのうち321万両は額面金額が2朱以下の小額金銀貨だった。これら2朱金、2朱銀、1朱銀といった小額金銀貨の増鋳により、金銀貨は文政元年から天保3年までに57パーセント[54]、安政5年までの40年間で80パーセント増となり[55]、これらの貨幣が江戸や大坂を中心として広く流通したことで、市場における銭貨の需要を相対的に減らす形となった。

天保の改鋳は、それまでの複雑化した通貨の整理と統一も目的としており、天保9年には文政度の金銀貨を100両に付き1両の増歩をつけて引替え、1朱金の通用は天保11年10月限りとし、天保13年に文政金銀すべてを停止すると発令している。

幕府の「納方勘定帳」に改鋳による益金が計上されるようになった文政元年から天保8年(1837年)までに改鋳による幕府の収益は900万両、天保3年(1832年)から同13年(1842年)までの益金総額は755万7000両、年平均68万7000両になった[56]。これらの改鋳によって金貨が激増したことで金銀相場は混乱し、江戸と上方の商取引は低調となって、商品不足による江戸の物価の高騰・大坂の商売不振といった、国民生活への悪影響がみられた[15]。また、これは金貨の改悪であったため、金価の下落と銀価の騰貴を招き、米価を低落させた。

この引替所として三井組が書いてある。その横に十人組と書いてあるけど調べたけどわからなかった。
読めない江戸の町名「田所町」を調べていた人もいた。

古文書は暗号解読のようなものだ。