那留ケ野騒動

古文書読ままい会があった。

明治2年に東京遷都のことで太政官からお触れが出ている。
その文章がわからない漢字で書いてあって、読むのに苦労した。
歴史的事実から推測して、皇后が東京へ行啓したのだと解釈。
つまり、皇后が行啓(天皇の場合は行幸)したということは事実上の遷都なのだけど、あくまで京都から東京城への行啓であるということで、反対派を抑える配慮なのだろう。

さらに、郡内で三日(二晩)にわたる寄り合いが那留ケ野であり、その後同心が来て牧村でも手鎖りで捕らえられた人がいると書いてある。

これは、「那留ケ野騒動」のことで、明治元年と二年にわたって凶作となり、郡中3千人が那留ケ野に集まり、年貢米の軽減とお助け米の代金千両(二千両)を藩庁に借りるという要望を出している。
藩庁はその願いを聞き入れなかったが、別の村からの堤防修理費の要望は聞き入れる。
そして、農民同士のいさかいが始まるのだけど、藩庁は騒動の中心となる67名を入牢させ、二ケ月後に収まると、取り調べなしに釈放している。

この対応の仕方は、どこかの国が現代でも使っている。

明治になっても一揆が起こっているのだ。
江戸時代はちゃんと藩主が責任をとらされたけど・・・。

終わってから、佐藤先生に「鷲狩り伝説」のわからないところを質問した。
時間がなかったので4か所しか聞けなかったけど、すっきりした。
帰ってから早速訂正。

例の名前の字は木+林だとあるのだけど・・・と言われた。
つまり下の字は林で普通は森に使う。
字からすると林+林=森となるのではということ。
これもありうる。