「明日死ぬと思って生きる」こと

久しぶりに法話を書いた。

物が語るのが物語。モノやコトが語っているのを編集する。
それは、方便として自分自身に届く。
そう願って編集している。

明日死ぬと思って生きよ  (私たちはたとえで物事を理解する)

ブログに書いてきたものをまとめただけだけど、不思議な気がする。
多分今までの様々な体験が重なっているからだろう。

「これで死ぬんだ南無阿弥陀仏。今日のいのちを頂いた南無阿弥陀仏
も入っているけど書かれてはいない。
「明日死ぬと思って」は先輩の葬儀の時の弔辞にガンジーの言葉として出てきたものだけど、そのエピソードは書いていない。

このブログを実験的にするということで始めたのが2012年7月。
今では、書かないと何が何だかわからなくなっている。

サイトに載せようと思ったのは、数学のページを書いたからだ。
そこにあるものを形にするのは私にとって書くしかない。
ふとぼんやりすると、頭の中がどうなっているのか気になってA4用紙に書き始める。
紙は使ったものの裏が良い。新しい紙だと躊躇する心が出てくる。

書き始めるとその書かれた文字が次の文字を生み出す。
そうやって広がっていくけど、それは図であって言葉にはなっていない。