支配を反転させる人々

昨日Eテレのこころの部屋で「コヘレトの言葉」をやっていた。

こころに残った言葉

ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。
倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
更に、ふたりで寝れば暖かいがひとりでどうして暖まれようか。
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。
三つよりの糸は切れにくい。

貧しくても利口な少年の方が
老いて愚かになり忠告を入れなくなった王よりも良い。
捕われの身分に生まれても王となる者があり王家に生まれながら、
卑しくなる者がある。
太陽の下、
命あるもの皆が代わって立ったこの少年に味方するのをわたしは見た。
民は限りなく続く。
先立つ代にも、また後に来る代にもこの少年について喜び祝う者はない。
これまた空しく、風を追うようなことだ。

この後半の言葉で連想するのが「麒麟が来る」
戦のない世を創ろうと思ったのに、結局信長という新たな王をつくっただけ。
室町幕府とどこが異なるのか。
強大な権力を持つことを志向しただけ。
権力は人間を変えてしまう。
人間の弱さだ。

戦国時代の領国は(ある意味)地方自治政府であった。
その地方分権よりも中央集権のどこが良いのか。
権力にからめとられたものはさらに欲を増す。
秀吉の「朝鮮出兵」もその結果。

世の中を変えることは、
権力にからめとられる「人間の弱さ」を見ると容易なことではない。
とすると、本当に弱いものがどのように立ち上がるのか。
コヘレトの言葉の前半の連帯しかない。
これが共同体であり、アソシエ―ジョンなのだ。

それは難しいことではない。
この厳しい支配の中で「たくましく」、支配を「裏返し」「反転させる」試みをしている人はたくさんいる。
その人たちの日常的な実践の仕方を知るだけでいいのだ。

例1)昨日久しぶりに旧友と電話で話をした。
彼は教員を退職してから、特技の木工を使って、1立方メートルのマスをコンパネを使って作っている。現役の頃、子どもに「1立方メートルってこんなに大きいんだ」と示したいと思っていたから、今それを希望する学校(これ自体が大変なこと)に作っている。もちろん大きすぎて教室に入らないから、作った後に丸ノコで半分に切り、棚として使えるように工夫している。ちなみに10立方センチのマスは市販品であるけど1立方メートルのものはない。

これも立派な支配を反転させる人だ。

例2)今学校では、先生方が、自ら構想を立てることを否定され、まるで歯車の一部にされている。そして、それをおかしいと感じることもできなくされている。
私の友人は、そういう学校の中で授業の構想を独自に立て、学級の活動を子どもたちだけでなく親とともにユニークな活動を進めている。実に楽しそうに。そこには校長先生も参加している。

これも支配を反転させる人だ。
彼はなぜそういう構想と実行ができるのか。
マニュアル化された仕事をせず、自ら構想を立て、実行を進めているからだ。

例3)この状況の中で、大きな活動はできないけど、読書会を持ち、本を読みあって感想を交流しようと考えて仲間を集めている友人がいる。
もちろんその仲間に入れてもらった。本を読むことは一人では難しい。でも、他の人が読んだ感想を言ってくれると、読もうという気になるし、そういうとらえ方もあるんだと気が付く。世界が広がる。

これも支配を反転させる試みだ。

そもそも今までこのブログに書いてきたことはすべて支配を反転させる試みだった。